tbスタッフマガジン

社会課題にのりきれない 

(2023/7/4)

こんにちは。タバブックススタッフの椋本です。
ものすごく久しぶりの更新になってしまいました。今回は最近ぼやぼやと考えていたことを書いてみました。自分の文章のあとに、宮川さんのコメント付きです。

自分と社会の関係、社会の中での自分の立ち位置など…いろんなことを考え直し中です、、

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先日、とある国際的な広告コンペのお手伝いをしたとき、審査員の方がこんな話をしていた。

最近の広告のトレンドは社会課題である。人権、気候変動、ジェンダー、貧困…。およそ100カ国から出品された3万点以上のキャンペーンのほとんどが、約束事のように社会課題のトピックと結びつけている。けれども、「広告担当者はその社会課題が本当に腹に落ちているのか」と疑問に思う作品がかなり多かった、と。

その話を聞いていた多くの参加者がウンウンと頷いた。その姿を見て、自分もウンウンと頷いた。

「社会課題にのりきれない」。これが最近の個人的な関心ごとだ。

「のりきれない」というのは、「どうでもいい」ということではない。むしろ、あらゆる社会課題が重要であるということは頭では分かっているつもりだ。

けれども、コンビニではビニール袋をためらいなくもらってしまうし、今日もユニクロで買ったくつ下を何食わぬ顔で履いている。このあいだ選挙で投票した人が今何をしているか実は全然知らないし、戦場の映像を見て心を痛めた3分後にチョコプラの動画を見て笑っていたりする。

それはタバブックスでの仕事にも影響を及ぼしている。ジェンダー本の紹介文を書くと決まってダメ出しされてしまう(いい言葉が浮かんでこない)し、デモやイベントに参加している人たちを一歩引いた場所から眺めてしまう。

とはいえ、昔から社会課題にのりきれていなかったわけではない。大学生の頃は国際関係学(International Relatons)を先行していて、SDGsの前身であるMDGsについて調査したり(MDGsの開発目標は8つしかなかった)、丸山眞男と民主主義を研究して、SEALDsの国会前デモに参加したこともあった。エコバッグは必ず持ち歩いていたし、ユニクロでは服を買わなかった。

しかし、次第に間接的な行動に虚しさを感じるようになっていった。熱意が続かなかったのだ。それはたぶん、自分にとって実感を伴う問題意識から出発した行動ではなかったのが要因だと思う。自分の行動によって何かが変わっているという実感がほしかったというのもあるかもしれない。つまり、行動すること自体が目的化していたように思えるのだ。ゴミをしっかりと分別するが、そのゴミのゆくえには全く無関心であるように。

そこで思ったのは、人を動かすのは「実感」ではないかということだ。実感がなければ動くことはできない、たとえ衝動的に動けたとしても、実感がなければ長続きしないのではないか、と。

その頃、「国際関係の最小単位は人と人」というフレーズが口ぐせの恩師に勧められて、スウェーデンのケアの研究の一環で、立川にある重度の認知症患者施設に二日間の実習に行く機会があった。

この実習での鮮烈な体験が、「差別・偏見」という自分が抱いていた大きなテーマと結びつき、「思想を語る前にまずは自分が目の前の相手にどう接することができるか」という問題意識を生んだ。

当時読んでいた小田実の『世直しの倫理と論理』にはこんな一節がある。

「えらいたいそうなこと言うてはりますなぁ。それで、わたしはどないなりますねん。そして、あんたはどないしはりますねん。」

社会へのインパクトは小さいかもしれないが、そこからもう一度始めようと思ったのだ。

この問題意識は、自分のZINE作りや「詩を誤読する会」の根本を支える考えでもある。つまり一つの物事には人の数だけの見え方があって、自分に見えている世界が絶対的な世界では決してない。ということの面白さを、読み手にウッカリ体験してもらいたいということだ。

だから、小沼理さんが著書『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』に書いていた、「日記を書くことは…アクティヴィズムでもあった」という考え方がしっくりくるのだ。

アクティヴィズムとしてのZINE作りやコミュニティの活動は、「実感」から出発しているし、目に見える形で読者からフィードバックが返ってくる。だから心と体、あるいは自分と社会がある程度まで一致している感覚がある。

一方で、ジェンダーや環境問題といった社会課題には熱意を持って動くことができない。自分の実感が伴っていないからだ。

しかし、喫緊の社会課題に対して悠長なことは言っていられない(と頭では知っている)。自分自身に問わなくてはならないのは、「実感をいかに抱くことができるか」。あるいは「実感がなくとも人は動くこと/動き続けることはできるか」という問いである。

大学時代の一時期、爆裂にハマっていた井上陽水にこんな曲がある。

都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない

僕は、僕らは、このジレンマを乗り越えることができるだろうか。

(椋本)

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タバブックスの宮川です。

スタッフブログは、最小限の文章チェック、疑問出しくらいでそれぞれにアップしてもらうのが通常ですが、今回椋本さんからあがってきた文章は、テーマが大きいだけに何度も確認、修正することになりました。

何度目かの修正稿が上記で、しかしまだ疑問は残る、だけどこれ以上調整して仕上げるのもスタッフブログとしてどうなのか…と、いうわけで、下記に現段階の疑問点をあげておきます。細かい点は他にもありますが、根本的なところのみです。

1)

「広告担当者はその社会課題が本当に腹に落ちているのか」と疑問に思う作品がかなり多かった、と。
その話を聞いていた多くの参加者がウンウンと頷いた。その姿を見て、自分もウンウンと頷いた。
「社会課題にのりきれない」。これが最近の個人的な関心ごとだ。

→審査員の発言は「担当者は、社会課題を理解して制作していない、という苦言」だと読みましたが、「ウンウン」というのはその審査員の苦言に共感したということ? それとも自分も「腹に落ちてない担当者」がわかる、ということですか?

2)

人を動かすのは「実感」ではないかということだ。実感がなければ動くことはできない、たとえ衝動的に動けたとしても、実感がなければ長続きしないのではないか、と。

→この段のあたりから、テーマの中心が「社会課題」ではなく、「のりきれない」、つまり自分の行動について、に変わってきてるように思います。実感がなければ動けないとしたら、生活する上で困り事がない、課題を考えずにいられる属性の人は動けないわけで、「のりきれない」のは当然なのでは。

3)

小沼理さんが著書『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』に書いていた、「日記を書くことは…アクティヴィズムでもあった」という考え方がすごくしっくりくるのだ。
アクティヴィズムとしてのZINE作りやコミュニティの活動は、「実感」から出発しているし、目に見える形で読者からフィードバックが返ってくる。だから心と体、あるいは自分と社会がある程度まで一致している感覚がある。

→「アクティヴィズム」は、社会的・政治的変革を目指す行動主義、という意味で使われるのが一般的だと思うので、ZINE作りやコミュニティ活動自体はアクティヴィズムではないのでは。小沼さんの一節は、日記というより、その後に続く「日本で生きているゲイ男性の1人としての」というところが重要だと思うので。そこを略したのはなぜ?

「のりきれない」という出発点はいいと思いますが、一人で考えて解決に向かうのは危険だと思いました。「思想を語る前にまずは自分が目の前の相手にどう接することができるか」と書かれていたけど、接するより前にまずは自分がどんな状況にいて、どんな立場なのか、それを知ること考えてみることおすすめします。

(宮川)

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