2人は翻訳している

「今でもあなたは、わたしの光」(後編)/小山内園子 

(2025/3/28)

2人は翻訳

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 「同意なしに、誰かの何かを利用する」という行為は、少し大げさにいえば尊厳を踏みにじる行為だと私は思っている。人の尊厳を犯す可能性は、目を凝らせば日常のそこここにある。翻訳業務も例外ではない。
 たとえば共訳作業。すんみさんとの共訳書は10冊ほどになるが、やり方は1冊目からあまり変わっていない。短編集なら、それぞれが担当したい作品を話したうえで調整をする。長編小説や同じ書き手のノンフィクションなら、前後半で担当を分ける。いずれも、編集者さんに訳稿を渡す前に自分たちだけの締切を2回決める。自分の担当分を相手に渡す締切と、相手から渡された原稿をチェックして戻す締切だ。その2回を経て、自分の担当分をブラッシュアップする。
 そういう過程で喧嘩になったことは一度もない。たぶんそれは、お互いが「同意」を、大事に考えているからだと思う。
 誤訳の指摘は、事前に気づいてもらえたらそれこそウルトララッキーなので、そもそも喧嘩にはならない。難しいのは翻訳のベクトルが違う場合。〈自分ならこうする〉と思った時、私たちは代案を添えて相手に戻す。決定権者はあくまで担当者なので、「ご提案」である。勝手に手を入れる、あるいは、「good!」「×」と採点みたいな評価だけを書き逃げするなどありえない。誰かと何かに向かうためには相手の同意がいるし、同意を得るには説明が必要。話し合ったわけでもないのに、気が付けばそういうルールが徹底されていた。おそらく、私とすんみさんは、嫌いなものが似ているのだと思う。
 共訳作業だけではない。作家とのやりとりもそうだ。個人的な関係が深くなるほど、作家の個人的なエピソードを知ることになる。なにしろどの作家も人間的な魅力がすごいので 、〈ああ、この話を紹介したら、ますますファンは増えるぞ〉と思ったりもする。だが、しない。これまで、SNSで、イベントで、訳者あとがきでオープンにしてきた作家とのやりとりは、すべて事前に了承を得たものだ。
 だってそうだろう。実は『●●』という日本のドラマが好きでもう何回も見ているとか、実は前職は△△で、そのつらい経験が作品のベースであるとか、実は好きな食べ物は日本のカツ丼だとか、そういうことはすべて私信でのやりとりであり、公開される前提ではないのだから(ちなみに下線部はもちろん、私の創作である)。
 いつもどおり、訳者あとがきを書くに当たって「~という作家さま(チャッカニム)とのやりとりを○○なエピソードとしてご紹介したいのですが、よろしいでしょうか」とある作家に尋ねた時のこと。2人のあいだのやりとりが記録として残るのはむしろうれしい、という返事のあとで、彼女がこう書いていたことは、今でも忘れられない。
「そして、そんなふうに事前に同意を求めてくださることが、さらにありがたいです。このやりとりもすべて、書いていただいてかまいません」

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 福祉はメガネ、翻訳は素顔、という小手先で何年もやってきていたが、その懸念とはまったく無関係の出来事が起きて、私はそれまでいた場所を離れることになった。別の組織で最前線業務に復帰するか迷った末に、どこにも所属しない野良のソーシャルワーカーとして、ケアする人をケアすることに重心を移すと決めた。今後、困りごとを抱えた人に職業として直接関わることは、おそらくない。
 そう決めてから、毎日同じ曲ばかり聴いている。米津玄師の「檸檬」。身近な人から暴力を受けた相談者が、なぜかよくこの歌を「好きな曲」にあげていた。歌詞の「あなた」に加害者を重ねてしまう、と教えてくれる人も複数いた。
 私は、相談者が直接語る言葉から、人の心の複雑さ、人生の重さを教わってきたのだと思う。それだけじゃない。生き抜いているというただそれだけで、もう十分に奇跡なのだということも。
 「檸檬」の「今でもあなたはわたしの光」というフレーズを繰り返し聴きながら、この春はゆっくり自分に勇気をチャージしている。

小山内園子(おさない そのこ)

韓日翻訳者。NHK 報道局ディレクターを経て、延世大学校などで韓国語を学ぶ。訳書にク・ビョンモ『破果』(岩波書店)、チョ・ナムジュ『耳をすませば』(筑摩書房)、カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』(白水社)など。すんみとの共訳書にイ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』『失われた賃金を求めて』(タバブックス)などがある。

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