しかたないという問題について(後編)/すんみ
(2025/2/28)
前編はこちらから→しかたないという問題について(前編)/すんみ
思えば、限界というものにぶち当たるたびに、限界は乗り越えるものだと思ってきた。困難は克服すべきものだと思った。努力すればできる、そう思ってきた。しかし、出産後に出会ったさまざまな困難は、自分では解決することも、乗り越えることもできない「しかたない」ことばかりだった。それが私を苦しめたのだ。自分の選択肢をすべて奪われてしまったような無力感、自分の力では太刀打ちでないというやりきれなさ。
しかし私の骨折は、乗り越えるものでも、解決すべき問題でもなかった。ただ、痛くて、動きづらくて、笑える出来事だった。恐れていた過呼吸は起きなかったし、パニックにもならなかったし、それまで抱えていたトラブルは解決され、トラブルのせいで進まなくなっていた仕事も一つずつ解決されていった。
もちろん、しかたないことがすべて良い方向に進むとは限らない。だが、しかたないことをしかたないと受け入れる、限界をそのままにしておく、目の前のハードルをやりすごす、ということで自分の選択肢を広げることができるということに気づいた。困難やハードルは越えなければならないものだという思い込みがなくなった私にとって、「しかたない」というのは、決してネガティブなことではなかった。「しかたがないこと」というのは、世界のどこでも、いつでも、誰にでもつねに起きている当たり前の出来事のようなものなのかもしれないと思うようになった。
翻訳する時もそうだった気がする。小山内さんが書いたように(「ロスト・イン・トランスレーション」)、「翻訳において失われるものは、確かにあるかもしれない」。というか、確実に失われるものがある。言葉には意味だけがあるのではなく、文脈やその言葉を使う人の様々な背景がかかわってくるものだから。だから、まったく異なる背景を持っている私が、書かれている、または書かれていることが含んでいるすべてを理解し、しかも自分の持つ言葉の体系に落とし込むことは難しいことだ。または、言葉が投げられてくるスピードと自分がそれを受け取りにいくスピードがズレていることだってあり得る。訳したあとに、そうか、そういうことだったのか、と気づく瞬間も多々あるのだ。しかも、自分が受ける側だと思っていたのに、気付けばボールを投げていることだってある。自分の選んだ訳語が意外なところで別の文章とつながってくることもある。「こうすればこうできる」とか「こういう風にすればよい翻訳になる」とか、そういう因果を自覚して翻訳をしたとしても、思いもかけない「しかたのないこと」は、必ず発生しているのだろう。そういうのはアンコントローラブルなもの、つまり「仕方」の無いことだけど、それはきっと「生きること」とか「人生」とかいったものそのものだから、ダメなことでもなんでもないのだ。
目の前にあるラインを、超えるべきものとして考えた時、それは超えるべきハードルや通過しなくてはならないゴールとなってしまう。しかしそれが、子どもの頃によく遊んでいた「ゴム跳び」のように、ゴムをまたいで行ったったり来たりしたり、踏んだり、くぐったりできるものだと考えれば、それは私たちにとって単なる障害にならないのではないか。
イギリスの文化人類学者ティム・インゴルドの『ラインズ』(工藤晋訳、左右社)という面白い本がある。文字の記述、音楽の記譜、 道路の往来などから人間世界における〈ライン〉とは何かを考察した本で、さまざまなラインの上で生きている私たちの人生について思考を広げていく。彼の言葉を借りれば、ラインとは点と点のあいだを繋ぐものではなく、点と点を散歩するものだ。そしてラインの進もうとするその運動こそに意味がある。なぜなら、どこにも縛られていない自由なラインの動きこそが新しい場所を発見し、つくるから。そう思うと、私たちが限界やハードルだと思ったものは、実は分岐点でしかなかったかもしれず、あるいは分岐点にたどり着くまでの散歩道だったのかもしれない。越えられなかったらそれはそれでしかたないことだし、それは「失敗」ではなくて、新しい道との出会いかもしれない。
私にとって骨折は、そういった分岐点になったような気がする。翻訳も一本道があるだけでなく、回り道やくねくね道や寄り道がある。いろいろな「しかたない」に出会うたびに、人生も進んでいく。
*
すんみ
翻訳家。訳書にキム・グミ『敬愛の心』(晶文社)、チョン・セラン『八重歯が見たい』(亜紀書房)、ユン・ウンジュ他『女の子だから、男の子だからをなくす本』(エトセトラブックス)、ウン・ソホル他『5番レーン』(鈴木出版)、キム・サングン『星をつるよる』(パイ インターナショナル)、共訳書にチョ・ナムジュ『私たちが記したもの』(筑摩書房)、イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』(タバブックス)、ホンサムピギョル『未婚じゃなくて、非婚です』(左右社)などがある。
2人は翻訳している 一覧
- しかたないという問題について(後編)/すんみ
- しかたないという問題について(前編)/すんみ
- ロスト・イン・トランスレーション(後編)/小山内園子
- ロスト・イン・トランスレーション(前編)/小山内園子
- 日本カルチャーという居場所(後編)/すんみ
- 日本カルチャーという居場所(前編)/すんみ
- 番外編 イ・ミンギョンさん講演会「韓国フェミニズムの〈いま〉」(後編)
- 番外編 イ・ミンギョンさん講演会「韓国フェミニズムの〈いま〉」(前編)
- 参考書は『ガラスの仮面』(後編)/小山内園子
- 参考書は『ガラスの仮面』(前編)/小山内園子
- 私の「オンニ」史(後編)/すんみ
- 私の「オンニ」史(前編)/すんみ
- 翻訳者を友人に持つことの醍醐味(後編)/小山内園子
- 翻訳者を友人に持つことの醍醐味(前編)/小山内園子
- 一つだけの答えではなく、自分だけの答えを見つけていくという話(後編)/すんみ
- 一つだけの答えではなく、自分だけの答えを見つけていくという話(前編)/すんみ
- 翻訳の戦慄と陶酔(後編)/小山内園子
- 翻訳の戦慄と陶酔(前編)/小山内園子
- 2人は翻訳している すんみ/小山内園子