2人は翻訳している

翻訳ができる体(後編)/小山内園子 

(2025/6/27)

2人は翻訳

前編はこちらです。

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 「小説を書ける体」「努力」。その言葉を見た時、それまでの少し自嘲的な気分が消えた。何か、決定的に違うものを見せられたような気がした。好きでいること、夢中であることへの態度が、作家と私とでは正反対に近いぐらい違うと感じた。
 私は翻訳という作業が好きだ。そこで自分が消える感覚が好きだ。それは、作品に体を差し出すというイメージに近い。と同時に、「鶴の恩返し」で鶴がガンガン機織りをしているような映像も頭に浮かぶ。一度始まってしまったら、ある羽だろうがない羽だろうが抜きまくって、作品を織り上げることに精魂傾ける。ぼろぼろになっても進む。そういうことが「一生懸命」だと勝手に思い込んでいた節がある。おそらく、だからなのだろう。私が自分の仕事部屋を「軟禁部屋」と感じ、必ずといっていいほど、作業の前にぐずぐず時間を作ってしまうのは。
 部屋にエアロバイクを置いている作家は、好きなことのために自分の体を保とうとしている。一方的に小説に身を捧げるというのではなくて、自分の体と小説が対等な感じ。メールにはそこまで書かれていなかったけれど、きっとムキになって徹夜をしたり、ノルマ達成にばかり気を取られたり、読書や映画鑑賞、家族友人知人との楽しみみたいなものを最低限にしてパソコンに向かったり(→すべて私、涙)はしないのだと思う。書くのと同じくらい、読む、見る、話す、聴く、蓄積する、エアロバイクを漕ぐ。好きなことを好きでいられるように、続けられるように。彼女の作業部屋はおそらく、鶴が籠る部屋ではないのだ。

 作家に触発されて一念発起した。エアロバイクを買う経済的な余裕も置くスペースもないから、小さくて無料の携帯に頼った。『Pikmin Bloom(ピクミン ブルーム)』というスマホ上のゲームアプリだ。
 ゲームの中で、ピクミンと呼ばれる半動物で半植物の生き物を育てる。すると花びらを受け取ることができる。花びらを集めて、歩いた道に花を植えながら散歩をする。スマホ上に表示された地図には、他の誰かが植えた花も揺れている。リアルな街と重なった架空の街に、「ビッグフラワー」や「キノコ」がそびえ立つ。オンライン上の「フレンド」と一緒に歩数の目標を立てて歩くこともできる。
 実は、始めた頃はすんみさんと、チェ・テソプ著『韓国、男子―その困難さの感情史』という人文書を翻訳中で、中に登場する韓国のゲーム業界の実態にげんなりしているところだった。そもそも55年の人生でやったことがあるゲームはテトリスくらいのもの。それに、オンラインゲームはまんまと課金の渦に呑み込まれそうで不安だった。
 だが、杞憂だった。Pikmin Bloomの世界はいたって平和だ。ミソジニーもバックラッシュもない。ピクミンと一緒に散歩しながらスマホ上の地図に目を落とせば、それまで気づいていなかった町内会ごとの掲示板や、へんてこなポーズの裸婦像などのリアルな街の風景も目に入る。育てているピクミンは3桁になって、スマホの中でたまに転んだり、それを誰かに抱き起してもらったりしている。こんな世界観があったとは! 散歩ののどかさに引きずられるようにして、私はほぼ毎日、8000歩近く歩くようになった。 
 自分の足で歩く。歩いている間にあれこれと眺め、感じ、考えながら、また家にたどりつく。散歩が趣味でない私にとっては、まだ少し修行の感じがある。でも、健全になってきているとは思う。「何かを好きでいるために自分を犠牲にする」という不健全な考え方ではなくて、「何かを好きでいつづけられる自分を作る」ほうへ、進んでいる気がする。翻訳ができる体になりたい。切実に。

 

小山内園子(おさない そのこ)

韓日翻訳者。NHK 報道局ディレクターを経て、延世大学校などで韓国語を学ぶ。訳書にク・ビョンモ『破果』(岩波書店)、チョ・ナムジュ『耳をすませば』(筑摩書房)、カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』(白水社)など。すんみとの共訳書にイ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』『失われた賃金を求めて』(タバブックス)などがある。

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