参考書は『ガラスの仮面』(後編)/小山内園子
(2024/9/27)
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ク・ビョンモの『破果』のときは、夜の街に特殊メイクで繰り出した姫川亜弓のノウハウをまねた。主人公のように殺人を犯すわけにはいかないが、どうしてもこれだけは知りたいと思うことがあった。誰かに疎まれる感覚。主人公は「老いた女」と各所で蔑まれ、それを受け入れつつも、プロの矜持で跳ね返す。そういうときの彼女のモノローグを日本語にするとき、諦念と反発心の割合はどれくらいだろう。周囲に疎まれていると自覚する感覚は、どんなものだろう。わからなかったから、やはりある土曜の昼下がりに決行した。
手持ちのなかで一番毛玉がついたトレーナーに、夫のおさがりのシミだらけのジャージをあわせ、ちょっとやり過ぎかと思ったが左右別な色の靴下をはき、小さな子どもたちが遊んでいる近所の公園に向かった。1月のきれいに晴れた日で、カラフルなダウンを着た若い母親たちが、子どもたちのボール遊びをおしゃべりしながら見守っていた。午後2時頃だ。ちょうどその母親たちの対角線上にあるベンチに腰を下ろして、私はおもむろにビニール袋からコンビニおにぎりを取り出した。個別包装されたものではない。2個入っていて、脇に唐揚げ1個とたくあん数枚が添えられているようなやつ。手にベタベタご飯粒がつく感じを出したかった。
小さな子がよたよたボールを蹴るのを見つめながら、ゆっくりと咀嚼した。鳥の鳴き声にも、ときおり上がる母親たちの笑い声にも反応せず、ただ子どもたちだけを見据えて、ひたすら米粒を噛む。指についたご飯粒を舐めとる。そうしているうちに、私のほうへとボールが転がってきた。小さい男の子がボールを追いかけてやってくる。
「そっちいっちゃダメえっ、おばさんのごはんの邪魔しちゃダメえぇ」
若い母親の声はほぼ絶叫だった。子どもより先にボールを止め、別なほうに放り投げ、子ども脇に抱えると、引きつった笑顔を浮かべながら私に「どうも、すいませんでした」と一礼した。そして、超速足で公園を後にした。
「そっちいっちゃダメえっ」。そっち? そっちって私? 私ってあなたたちと、別の側なんだ。
その瞬間、身体に電流が走った気がした。『ガラスの仮面』でいえば、「奇跡の人」で姫川亜弓がヘレンを演じた時の、全身に電流が走ったような演技で「ウォーター」と叫ぶ、あの場面に近かった。「そっち」だ! 日差しの下、誰か大切な人とむつみあって、やさしい笑顔やあたたかな笑い声が存在する側じゃないほう。暗くて、ジメジメしていて、孤独で、寒い「そっち」。『破果』の主人公が生きるのはそういう場所だ。それで主人公が自分の住む世界と違う場所を眺めるとき、作家はああいう比喩、ああいう形容詞を使っていたんだ!
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もちろんもちろん、そんなことをしたからといって訳文が大きく変わるわけではない。単なる自己満足であることは重々承知している。そもそも、チョ・ナムジュの短篇の「足がしびれたりとか、お腹が痛くなったりしたら」の部分は、普通に訳出して問題のない平易な原文だ。ク・ビョンモの『破果』にいたっては、ああいうことをするのはむしろ危険かもしれない。「電流に打たれた」などといい気になっているうちに、調子づいて原文から乖離した訳語を選んだり、余計な文章を加えたりしたくなりかねないからだ。
にもかかわらず。私にとって『ガラスの仮面』をなぞることは、翻訳をする上での原則を再確認する作業である。『ガラスの仮面』という作品を参考書にしてこそ、「翻訳は原文を自分に引きつけるのではなく、自分を原文に寄せていく作業」だと、改めて頭に叩き込むことができる。
韓国語と日本語は、文法構造がほぼ同じで漢字由来の共通する単語も多い。日本語同様敬語まであるので、大意をつかむだけなら他の言語より楽かもしれない。ただし小説の翻訳では、そこが落とし穴になったりする。似ている言語だからと気を抜いて、作家独自のリズムや言葉の選び方を見落としてしまえば、訳文はあっというまに自分の知っている「自然な日本語」、つまり「私の日本語」になってしまう。だからこそ憑依もどきをする。自分が原文に近づくのだと念じてみる。すると、別な世界に自分を没入させる準備ができる。
いやいや、翻訳者が完全に自分を消せるはずがない、と思う人もいるだろうが、自分なりのアプローチが、原作をどう活かすかという点で、翻訳者それぞれに個性を与えるのではないか。だってそうだろう。マヤも亜弓も同じ役を複数回演じているが、それぞれ憑依没入した結果生まれたキャラクターは、同じ役とは思えないくらい別人なのだから。そういえば、翻訳家の深町真理子さんは言っていた。「訳者は役者である」と。
この夏は、来る日も来る日もお風呂の残り湯につかって、クラゲになりかけた人間の喜びと悲しみをがんばって想像した。……わかっている。それが自己満足だということはよーくわかっている。それでもこれが、私の方法なのである。
小山内園子(おさない そのこ)
韓日翻訳者。NHK 報道局ディレクターを経て、延世大学校などで韓国語を学ぶ。訳書にク・ビョンモ『破果』(岩波書店)、チョ・ナムジュ『耳をすませば』(筑摩書房)、カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』(白水社)など。すんみとの共訳書にイ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』『失われた賃金を求めて』(タバブックス)などがある。
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