日本カルチャーという居場所(後編)/すんみ
(2024/12/27)
前編はこちらです。
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いろいろなところで何度も書いたことがあるけれど、私の学生時代はちっとも楽しいものではなかった。しかも「IMF事態」と言われる経済危機の影響を受けてからの高校の時代は、本当に最悪中の最悪だった。
韓国の高校生がどれくらい勉強に必死かは、容易に想像がつくだろう。高校三年の十一月に、「人生がかかっている」と言われる大学修学能力試験(修能)がある。いまは受験の方法が多様化しているが、私が高校生だった二〇〇〇年の初頭は、修能でいい点数を取るために毎日修行のような勉強を行っていた。「0限」があるため八時前には登校しなければならず、授業がすべて終わったあとは、夜の給食を食べ、夜間自律学習という名の強制自習に参加しなければならない。自律学習なのになんで強制参加なんだよ、といつも反発していたけれど、今思えば、学習を自律的にやってと言われていたわけで、参加が自律とは言われていなかった。とにかく学校でのすべての日課が終わるのは夜十時で、そこからは家に帰って休んだり、オンライン授業を聞いたり、塾に行ったりした。
私が通った高校は、釜山でも教育熱心ということで有名な学区にあった。学校の近くには「カリスマ講師」のいる塾がたくさんあり、子どもたちの学習スケジュールを親が管理する家庭も多かった。当時の釜山では進学校に学生が集中することを防止する目的で1970年代から始まった学校平準化政策により、家の住所を基準にした学区で配属校が決まるシステムだった。だから当時住んでいた家からすると、私は別の学校に配属される予定だった。なのに、人数調整という理由で、私はトンネルを通らなければならないその高校に配属されることになった。中学校までのほんほんと暮らしてきた私にとっては、まるで青天の霹靂。教育熱心の親が親戚の家に住所地を変更する「偽装転入」までしてでも我が子を入学させようとした学校だったため、「運がいい」と言う大人たちによって「運が悪い」と言う私の意見は黙殺された。
入学してみると、案の定、すべてが大変だった。朝学校に来る車の中で、親に手渡された英単語を覚える子、試験に出る可能性が高い問題をピックアップしてくれる塾に通う子、ノートに塾の先生から教えてもらった秘伝の技が書かれているからノートを見せられない子。それまでとは別世界だった。塾になど通える状況ではなかった私にとって、学校の授業についていくのも大変で、習い事で毎日忙しい友だちとの友情を築くなんてことは贅沢な話に過ぎなかった。
入学して半年が経っても学校に慣れることができず、毎日退学のことばかり考えていた。そんな私が、少し耐えられるようになったのは、日本のカルチャーにハマっている友だちができてからだった。友だちと自分が好きなものについて話し合う時間がとにかく楽しかった。
おもしろい本もたくさん教えてもらった。私が通った高校は、教育庁(教育委員会のような教育行政機関)から読書の推薦学校として選ばれたところだった。二十年も前のことなのでうろ覚えだけれど、文系のクラスには「読書」という科目が設けられて読んだ本について発表をしたり、読書討論をしたりしたし、一か月に一回は指定された本を読み、読書感想文を書かなければならなかった。国語のテストの範囲に指定書が含まれていたので、テスト前に文系の子たちが一生懸命に読書をしていると、通りがかりの理系の子たちから「テスト前なのに優雅なもんだね」とからかわれることもよくあった。本は先生に推薦されたものやクラスメイトがおもしろいと言っていたものから選んだが、日本のカルチャーに興味がある子が多かったので、当然ながら、日本文学をたくさん教えてもらった。『窓ぎわのトットちゃん』の場合、クラス全員で回し読みをしていた覚えがある。貸し出し予約票があって、期間は一週間。次に回すのが少しでも遅くなると厳しく抗議された。だから本を持っている子は、休みの時間にも席に座って本を読んでいなくてはならなかった。『窓ぎわのトットちゃん』の他にも吉本ばなな、江國香織、村上龍、村上春樹などの本が教室のあちこちで回されていた。
そうこうするうちに、日本のイメージが膨らんでいったと思う。岩井俊二の映画『Love Letter』で見た北海道に憧れ、PIZZICATO FIVEが「東京は夜の七時」で歌っていた寂しさについて考え、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』でトットちゃんが出会ったやさしい社会をうらやましく思い、吉本ばななの『キッチン』に出てくる日本の食べ物の味を想像してみた。
いま思えば、そうやって頭の中で思い描いてきた日本が、私と日本の出会いだった気がする。だから、日本への留学を決めて韓国で日本語教室に通い始めた頃に、教室から出てくる私に「どうして日本語なんか勉強するのか」と罵倒が浴びせられた時は、戸惑うばかりだった。それからも日韓の歴史問題で、どうして私は日本を選んでしまったんだろうと後悔することもあった。フランス語が専門の日本語先生に勧められた通り、フランス語を選び、フランスに留学していたら、起きなかったかもしれない苦い経験もした。
しかし、高校時代に経験したあたたかい時間があったから、つらい時期を通ることができた。当時の私にとって、日本のカルチャーは毛布のように私をやさしく包み込んでくれるものだった。私が訳した本が慰めになったという言葉をかけてくれる読者に、大学で私の授業が大学での居場所になったという学生に、それは私の「恩返しですよ」という気持ちを届けたい。私がいただいたものをお返ししているだけだと。
すんみ
翻訳家。訳書にキム・グミ『敬愛の心』(晶文社)、チョン・セラン『八重歯が見たい』(亜紀書房)、ユン・ウンジュ他『女の子だから、男の子だからをなくす本』(エトセトラブックス)、ウン・ソホル他『5番レーン』(鈴木出版)、キム・サングン『星をつるよる』(パイ インターナショナル)、共訳書にチョ・ナムジュ『私たちが記したもの』(筑摩書房)、イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』(タバブックス)、ホンサムピギョル『未婚じゃなくて、非婚です』(左右社)などがある。
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