世界へ踏み出すための、新しい地図(前編)/すんみ
(2025/7/29)
韓国文学が小説からエッセイまで、様々な方面から日本の読者の関心を得るようになった頃に、私は運よく翻訳の仕事を始めることができた。2010年代にはまだ、韓国文学の翻訳に興味を持つ韓国語の学習者が少なく、そのおかげで日本語ネイティブではないけれど、留学生として日本で現代文学を学んでいた私にチャンスが巡ってきたと思う。大学院生だった時、先生の紹介で知り合った文芸編集者の依頼で、李承雨(イ・スンウ)、姜英淑(カン・ヨンスク)、崔勝鎬(チェ・スンホ)などの韓国作家の対談やインタビューの通訳をした。その経験も、本格的に翻訳の道を志すきっかけを与えてくれた。その後、大学院を卒業し、進路を決めなければならなかったまさにその時期に、世間で韓国文学への関心が高まっていたことは、あまりにも幸運な偶然だった。もしかしたら、これからの人生で二度と経験できない大きな運が巡ってきたのかもしれない。
多くの出版社が韓国文学に関心を寄せたが、翻訳者はそれほど多くない時期だった。金順姫(キム・スンヒ)さんが翻訳した李承雨『真昼の視線』の作家イベントで通訳を担当したことがあり、そのイベントがご縁で知り合った編集者の方から、翻訳の依頼を受けることになった。そのようにして初めて翻訳を手掛けることになった本が、キム・グミの『あまりにも真昼の恋愛』だった。いま振り返れば、ずいぶんと思い切ったことをしたと思う。翻訳経験もないのに、韓国でも著者独自のセンスで綴られた文体が話題になっていた本を翻訳すると手を挙げるだなんて。
翻訳作業は、少しも順調ではなかった。キャリアの長い翻訳者でも、翻訳は難しいというのに、経験のない初心者にとってはどれだけ困難な作業だったか。当時は韓国語から日本語への翻訳を教えてくれるところもなかったため、私は文学が好きだという気持ちだけで、翻訳の世界に飛び込んだのだ。そして早々に、深い絶望を味わうことになった。
「この翻訳じゃ、出版は難しいです」
翻訳原稿を受け取った編集者との打ち合わせでは、大幅な修正を求められた。翻訳についてのコメントを聞くうちに、「これはやりなおしと言っていいほどの手直しが必要になるぞ」という恐ろしい予感がした。そして、その予感は的中した。翻訳に手を入れ始めると止まらなくなり、ところが新しい翻訳にも自信が持てなくて、すべてを振り出しに戻した。翻訳してはボツにして、また翻訳する。何日も同じことをくり返すうちに、途方にくれてしまった。
どうすればいいか迷いに迷って、韓国文学の編集経験のあるフリーランス編集者Nさんに助けを求めることにした。Nさんとはイベントなどで何度かあいさつをしたことがある程度だったのに、いきなりメールをしたのだ。それほど追い詰められていたのだろう。翻訳は初めてで、日本語ネイティブでもないので、助けていただきたいという願いを込めた内容だった。突然の連絡だったので無視される可能性が高いだろうと思ったが、すぐに返事が届いた。その後、神保町で一度顔合わせをし、誠にありがたいことに、相談役を引き受けてもらうことになった。それから月に一回、二人だけの「翻訳教室」が開かれた。私の翻訳にNさんがフィードバックをしてくれるやり方だった。単なる日本語のチェックではなかった。Nさんが教えてくれたのは、翻訳の「基本」とも言えることだった。例えば韓国語の原文をどこまで読み解き、どのような日本語にすれば読者に届く文章になるのか。Nさんは、その「答えのない問い」に向き合う姿勢を、私に一生懸命わからせようとした。
いまメールを確認してみると、2017年7月から12月までの六か月間、Nさんの「翻訳教室」が行われた。普段はメールでやりとりをし、私の修正原稿がある程度たまったタイミングで新宿や神保町などで会い、私から気になっていたことを質問攻めにした。Nさんはたくさんのことを丁寧に教えてくれ、私はできるだけ多くのことを短期間に習得しようとした。もらったコメントをほとんど覚えられるほどまで読み返した。Nさんは、「翻訳教室」の「卒業」後に、こんなに早く実力が伸びたケースは、見たことがないと褒めてくれた。いま考えると、あれは「翻訳教室」というより、「翻訳特訓」というべきものだったのではないかと思う。六か月間の特訓で、翻訳原稿はすっかり新しいものになった。その後は、版元の編集者さんとやりとりしながら、原稿をさらにブラッシュアップして、無事、本が刊行された。一冊の本で、Nさんと版元の編集者さんの意見を聞き、編集者によってもそれぞれに編集方針が異なるのだと学べたのも、私にとって大きな財産になったと思う。こういうことを、韓国では「転災為福」、日本では「災い転じて福となす」と言うのだろう。
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後編に続きます
すんみ
翻訳家。訳書にキム・グミ『敬愛の心』(晶文社)、チョン・セラン『八重歯が見たい』(亜紀書房)、ユン・ウンジュ他『女の子だから、男の子だからをなくす本』(エトセトラブックス)、ウン・ソホル他『5番レーン』(鈴木出版)、キム・サングン『星をつるよる』(パイ インターナショナル)、共訳書にチョ・ナムジュ『私たちが記したもの』(筑摩書房)、イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』(タバブックス)、ホンサムピギョル『未婚じゃなくて、非婚です』(左右社)などがある。
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