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植本一子×栗原康 ダブル出版記念対談 「恋愛とアナキズム」  【前編】3.11以降の文学は『かなわない』であると言ってもいい!? 

(2016/4/11)

植本一子さんと栗原康さん、おふたりの新刊『かなわない』村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』出版を記念してトークイベントを新宿・ネイキッドロフトで行いました。ともにタバブックスで本を出してくれたふたりは、分野は違いますがどことなく共通するところがあります。対談に向けてのメッセージも息ぴったり。仲よしのライター神田桂一さんとともに恋愛とアナキズムについて語ってもらいました。

「栗原さんから頂いたかなわないの感想「植本一子は現代の伊藤野枝だ!!!」をわたしは喜んでいいのでしょうか?新刊でしっかり勉強させていただきたいと思います」 植本一子

「植本一子は現代の伊藤野枝だ!!! 村に火をつけ、白痴になっている。かなわない。」  栗原康

カバー13  noeden


栗原
「植本一子は、白痴である」と。

植本 白痴。バカってこと?


神田 植本さんも栗原さんも、近いタイミングで本を出されたということで、お互いの作品をそれぞれ読まれたんですよね。

植本 ゲラで先に読ませてもらいました。

栗原 僕は3回読みましたよ。

植本 ほんとに?これ20万字あるんですよ?

栗原 ほんとですよー、もう植本さんのことだけを考えて。

植本 ありがとうございます。ちょっと怖いけど(笑)

神田 お互いの感想を聞かせていただきたいんですが、じゃあ『かなわない』を3回読んだ栗原さんから。

栗原 まずいちばんの感想は、圧倒的に面白いです。3回読んでの感想がこれでいいのかと思いますが(笑)。『図書新聞』の書評(注・図書新聞3月26日号 三省堂書店神保町本店大塚真祐子さんの書評。タイトル「危険な本」)にもありましたが、危険な香りのする本でした。危険だなと思いつつ、ちょっと読んだら止まらなくなるのが特徴で。前の私家版(注・植本氏が2014年に自費出版で出した冊子版の「かなわない」)を読んだ時も、明日が締切というとき休憩のつもりで読みはじめたら気づくと2、3時間たっていて、原稿間に合いませんでした。植本さんのせいで(笑)。それで、面白いと思ったところを考えてきたんですが…(ノートを取り出す)

植本 えーっ、すごい。私そんなのやってない!

栗原 友人と深夜3時くらいまで電話しながら考えたんです。この本は、震災のあと5年間の植本さんの日常がひたすら綴られているだけなのに、なぜか面白い。知り合いの編集者に聞くと「それを日記文学と言うんだよ」と。日常生活をそのまま綴るって普通はやらない。それをやることの過剰さみたいのが面白いのかなと。それで何かいいフレーズはないかなと2つくらい考えました。ひとつめは、ぼくは伊藤野枝を表すのに「村に火をつけ、白痴になれ」と言っているんですが、「植本一子は、白痴である」と。

植本 白痴。バカってこと?

栗原 は、はい(笑)。完全に日常を綴れるというのも、バカになるというか、ゼロになる、そういうことができているのがすごい。最初、野枝の思想とかで切りとってここが面白いとまとめようと思ったんだけど、いくらやっても出来なかったんです。でも出来ないというのが実はすごいことで。1日1日の文は短いので、何かこういう論とか、まとまっているわけじゃないんですよね。しかも植本さんが毎日毎日ひたすら考え続けている。放射能の問題をどう考えるか、育児をどう考えるか、結婚しているけど彼氏が出来てどう考えるか、思考が展開してどんどん加速していく。そして結論は特になく完結しないから、これからもどんどん続いていくなというのがわかる。統一性はない、完結性もない、これはこういう本と言うことは出来ない。
 もうひとつ言えるのが、情報量がある本でもない。例えば放射能のことを気にしているけど、こうすれば防御できるといった情報はない。あるいはライブに行ったりしているのでカルチャーのことが詳しくのっているかというとそうでもないし、育児のことは日々悩んでるけどこうやればいい、あるべきだという情報があるわけではない。必要とされているわけじゃないのに、読み始めたら止まらなくなる。僕も『はたらかないで、たらふく食べたい』で、生きていく上で世の中の役に立たなくてもいいんだよ、社会への有用性より無用性でありましょう、と言っているんですけど、でも反労働とか、労働廃絶とかの知識とかを書いたりするわけです。よく学生に「栗原先生の本は、逆自己啓発本ですよね」とか言われたりするんですけど、あ、俺の本は役に立つのかと思ったり(笑)。でもそういうものさえも拒否しているんですよね。統一性も完結性もあるわけではない、情報もない、でも何かがあるというところがすごいと。社会の尺度やしばりからはみ出していくことを、この本の書き方自体で表していると思うんです。
 こういうものだと統一してとらえることができない、社会で必要とされているとも言えない。でも日常生活ってそういうものではない、もっと人間の生き方は過剰であると、社会の役に立つために生きているわけではないし、主婦としてとか、写真をやっている労働者としてとか、育児をする母親とか、そういう役に立つ主体、アイデンティティのために生きているんじゃない、ということを文体そのもので表しているんじゃないか、と思ったんです。

植本 すごい。先生みたいだった。ありがとうございます。

栗原 何者にもとらわれない。そういう意味で、植本一子は白痴である、と。

植本 はい。いいですよ、じゃあ(笑)

神田 ある意味、いちばん喧嘩を売ってる本というわけですね。

栗原 社会に対して喧嘩を売ってるし、政治的なそぶりを一切見せないんだけど、もっとも政治的な本なのかな。もうちょっと続けていいですか?

植本 まだあるの?すごい!

書くことで背負わされているものから逃げ出していく
読んでいる側も一緒にその境地に連れて行ってくれる


栗原 もうひとつ言いたかったのは、2011年以降ということが大きくて、この本こそが3.11以降を象徴する文学である、と思ったんです。3.11以降の文学は『かなわない』であると言ってもいいのかなと。『はたらかないで、たらふく食べたい』を書いた経緯もそうだったりするんですけど、3.11以降何が起こったのかなとずっと考えてるんです。それは社会に役に立つ人間でありなさい、という主体性を押し付けられたり、自分でそうしなきゃいけないと思わされているのかなといつも思っていて。左派右派ともそうさせられている。
 原発は左派右派にとっても問題である、ここまでは一緒ですよね。子ども抱えたお母さんなら被爆避けるためにこうじゃなきゃいけない、反原発の母親はこうしなきゃいけない、と思わされる。子どもがいなくても、ほんとなら楽しいことしたいのに、でもこんなにひどいことがあるんだからデモに行かなきゃいけないと思わされる。右派の側にしても、放射能の問題を危ないと言ったら東京の経済が成り立たなくなるから、強烈に普通の生活をしなきゃいけない、日々淡々と経済活動やっていかなきゃいけない。どんな生活でも、被爆しないため、原発を止めるため、あるいは被爆しても社会で経済活動を回すために必死になって社会に有用であろうとすることをやらされてきた。そういうのが重たいなって。
 それを「生の負債化」という言葉を使って、重たいから解き放たれよう、と言ったり書いたりしてるんです。でも植本さんが素でそれができていて、『かなわない』を書いているのかなと。何もせずに日常生活を送っているだけだったら、反原発をする主婦とか、ECDの妻とか、よき母親とかそういう主体であらざるをえないと思うんですが、書くことでこうすべきだというのを裏切っている、いい意味でね。書くことでアイデンティティを拒否しているのができているのかなと。書くことでどんどん社会の有用性からはみ出していく、背負わされているものから逃げ出していく、そして読んでいる側も一緒になってその境地に連れて行ってくれるというのが、すごいことなんですよ。
 普通逆なんですよね。文章を書くと、自分はこういう主体なんですと言ったり、気づくとそうなっている。でもこれは文章を書けば書くほどそうじゃなくなっていく。「かなわない」自体が超アナーキーなんじゃないかなと。言いたいことだいたい言いました。

植本 アナーキーですか。ほめられてるんですよね。

栗原 もちろんですよ。アナキストですから(笑)。

「現代の伊藤野枝」と呼ばれるなら、うれしい
恋愛イコール破滅、私もそう思います

神田 じゃあ、今度は植本さんから。

植本 植本はねえ、白痴なんでね(笑)、そんなに熱弁はふるえないですが、「現代の伊藤野枝」と呼ばれるなら、うれしいなと思いました。栗原さんの『はたらかないで、たらふく食べたい』はすごくおもしろかったんですけど、伊藤野枝や大杉栄を知ったのもこの本なんです。なんて面白い人がいるんだろうと思って。伊藤野枝超かっこいい。『村に火をつけ、白痴になれ』は伊藤野枝の生涯を、栗原目線で書いた本です。いちいち文章の終わりに栗原さんのツッコミがはいるんですよね。「貧乏はつらいよ」とか。「かっこいい」とか。知らんがなって(笑)。いちばんかっこいいなと思ったのが、殺されるのを予見していて、友だちに「怖くないんですか」って聞かれて、「野枝はのど元をさっとひいて、いずれこうなることはわかっていますから」って。こういうの資料でちゃんと残ってるんですか。

栗原 そうですね、でも結構これは有名な話で。

植本 資料調べながら1冊書くの大変そう。でね。初めて栗原さんとお茶したときに聞いたのが、伊藤野枝のお墓の話なんですよね。それもこの本に出てくるんですけど、お墓に触ったり、動かしたりした人がみんな死んでいくと言う。それもこの本を読んでわかったけど、めちゃくちゃ怨念強そう。最後殺されたんですもんね。

栗原 野枝の故郷だと、結構伝説がすごくて。近代の偉人じゃないですか、そのつもりで故郷訪ねたら、墓石を壊して持って帰った家の人が立て続けに死んだとか、そういのが3回くらい起きる。祟りがあるからってみんな近づかないそうです。

植本 へえ。栗原さん、肘かけたんですよね、石に。でも自由恋愛の神様って女子高生がお参りに来たりするんでしょ。

栗原 野枝の墓は3ヵ所にあって、大杉と甥3人一緒に殺されてるから、野枝メインのが今宿に、大杉メインのが静岡、甥っ子メインのが名古屋にあるんです。遺骨は全部一緒にしてるから3ヶ所に。静岡の方だと評判がいいんです。自由恋愛の象徴で。

植本 自由。いいな、って思いました。ここもいいんですよ、栗原さん、読んでください。

栗原 「ある男と女とが愛し合うまでには、双方ともある程度まで理解しあうのが普通でしょうが、愛し合い信じ合うと同時に2人の人間がどこまでも同化してひとつの生活を営もうとするのが現代の普通の状態のように思います。私はこんなものが真の恋愛だと信ずることはできません。こんな恋愛に破滅が来るのは少しも不思議なことではないと思います。」いいことばですねえ。

植本 まさにですね。そう思います、私も。恋愛イコール破滅です。aikoの曲を聴いてごらんなさい。いつも破滅してます。これが野枝の恋愛観なんですね。

栗原 恋愛でひとつになれない、ということですね。こういうの答えたらかっこいいですね、恋愛観を聞かれて。

植本 これ売れるといいですね。読んだら逆自己啓発されて、いい世の中が待ってる気がする。

後編は恋愛の話です。お楽しみに!

 

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