へんしん不要

へんしん不要〈第31通〉「自分ではない誰か」になる力 

(2020/3/23)

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イラスト・題字 のむらあい

封筒_もちい

 


 
こんにちは、近ごろはいかがお過ごしでしょうか。季節の変わり目で体調を崩したり、黄色い粉の襲来に苦しんだり、春の落ち着かない感じに頭がぼうっとしたりしていませんか。毎度お馴染みの「春っぽい症状」にも、今年は少し神経がざわざわさせられますね。社会全体が行き詰まって余裕がなく、自分のペースを保って暮らすのも難しく感じます。外の空気を吸いにくいというのもありますし、家の中でもなるべくそばに心が安らぐもの、五感が楽しくなるようなものを置いてくださいね。

 日常の空気がどんよりとしているのも苦しいし、国内のニュースを見るのもつらい。とくに政治の話題が。いや、今に始まったことではないのですが、ここのところ目に入るニュースは、コロナのことにしてもオリンピックのことにしてもお金や仕事のことにしても、真っ当に怒ったり悲しんだりする気力を根こそぎ削がれるような、粗悪で虚ろなものばかりです。しかも一向によくなる気配がしない。国を動かしているはずの彼らは、決して自分たちのいる安全で乾いた場所から動こうとはしません。私たちの暮らしに、本当の意味で目を向けようともしない。変わったり、揺らいだり、何かを染み込ませたりすることもなく、ただただあのようにあり続ける。とてもよくない意味での「盤石さ」を感じてしまうのです。

 こういうときに私が思い出すのは、去年の末に行ったTHE YELLOW MONKEYのコンサートのことです。(実を言うと、この3ヶ月ほどの間、私はずっとそのことについて考えていました。)ナゴヤドームで吉井さんが最初に歌ったのは、戦争で死んだジャガーという男の歌。そして最後に歌ったのが、彼に残された恋人のマリーの歌でした。祖国に恋人を残して殺された若者と、彼に残された女の悲しい歌。そこで叫ばれる彼らの情念は、それを歌う「吉井和哉」のものではない。国籍も、置かれている状況も、性別すらも違う、ここにはない人間のものです。しかしステージに立つ吉井さんの中には、間違いなく彼らがいました。眩暈を感じたのは、現実に対する不安もあったのでしょう。世界には争いの予感が漂っていたから。でもそれ以上に私を揺さぶったのは、吉井さんが見せた「自分という人間が置かれている座標から離れ、自分の知らない何者かになる」という営みへの畏れでした。

 生まれた場所。育ってきた環境。与えられたもの。与えられなかったもの。どのように生きることを望み、どのように生きることを望まれてきたか。何に傷つき、何に救われてきたか。その人の体や心は、どんな道筋を辿ってきたか。そうした要素の一つ一つが干渉し合い、混じり合って、自分という人間の座標を決める。その座標は時にぶれ、揺れ動き、時には思いがけないほど遠くに飛ばされてしまうこともある。十代と二十代の自分はまったく違う人間かもしれないし、同時に、自分が自分であるという事実からは逃れられない。自身の力で個人の座標をずらすというのは、とても大変なことです。

 
 世界にはあらゆる形の痛みやよろこびがある。私やあなたはたった一人の人間でしかないから、そのすべてを得ることはできないし、またすべてを得ずにいることもできない。同じように、この世界には信じられないほどたくさんの問題があるけれど、世界を生きる全員が、あらゆる問題の当事者となることはできません。それでも、問題を抱えた誰かの近くに座標を動かすことはできる。それを可能にする力のことを私は「想像力」と呼ぶのだと思います。

 まだ知らない物語に触れること。お芝居や音楽でもいいし、目の前の、あるいは顔も見えない誰かと言葉を交わすのでもいい。私の外側にあるものをよすがに、私自身をどこか遠くへ連れていくこと。自分の内側にない景色を見ること。それは必ずしも優しい旅ではないかもしれません。否応なく引きずりこまれる嵐のような想像力だってあるでしょう。吉井さんにジャガーとマリーの歌を歌わせたのは、そういう類のものだったのかもしれない。あの歌を作った頃の吉井さんは、今よりずっと若く、心も体もたぶんぐらぐらに揺れていて、当時のライブを映像で見ても、ステージの上で「違う誰かになる」彼の姿からは、どこか霊的な凄まじさが感じられます。そこにあるよろこびも苦しみも、私は正しく知ることができない。だから手放しで「彼にあのような力があったのはすばらしいことだ」と言うことは、私にはできません。だとしても、水や風がなければ私たちの世界が成り立たないように、想像する力というのは、この世界にとって絶やしてはならないものなのだと思います。


 さて、長らく続けてきたこのお便りですが、実は今回で一度終わりを迎えることになります。これはだいぶ前から決めていたことで、私としては気候がすがすがしく、節目としても晴れやかな3月に……という希望を抱いていたのですが、そこはなかなかうまくいかず、不安ばかりがある春になってしまいました。

 
 それでも、今日はとても天気がいい。外は日差しを浴びて黄色く光り、柔らかい土埃の匂いがして、ずっと素知らぬ顔だった桜の木々も、一斉に花をつけ始めました。社会がどんな状態であっても、春は無情にやってきて、私たちの心を暖めたり掻き乱したりする。「春はなんか優しくて残酷」と吉井さんも歌っていましたけど、まったくその通りで笑ってしまいますね。

 
 またいつか、お手紙出します。ままならないことばかりの日々はこれからも続くでしょうが、それまでどうぞご自愛ください。元気でいてもいなくても、なるべく気を楽にして、伸びやかに暮らしてください。へんしんは、不要です。

 もちい

餅井アンナ(もちい・あんな)

1993年宮城県生まれ。ライター。食と性、ジェンダーについての文章を中心に書いています。「wezzy」にて書評・コラムなどを執筆中。食と性のミニコミ『食に淫する』制作。

 

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