トミヤマユキコ

労働系女子マンガ論! 第5回 『娚の一生』西炯子〜超エリートの女・堂薗つぐみはいかにして「娚(おとこ)」となりしか(後編) 

(2013/7/18)

労働系女子マンガ論! トミヤマユキコ

前編はこちら

ひとりの人間の中には、女性性と男性性が共存している
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  ここからは、つぐみと海江田の関係性を見ながら、本作品のタイトルにもなっている「娚(おとこ)」とは一体誰なのかということを考えてみたいと思います。

 「娚」には、大きく分けてふたつの意味が込められているように思われます。

 ひとつ目は「ひとりの人間の中には、女性性と男性性が共存している」ということ。女でありながら男並み、いや、男以上に仕事ができ生活力もあるつぐみはまさに「娚」です。祖母の遺した土地を譲り受けることになった際も「家を持つような女は結局「男」だよ」(第14話)と言われていますし、この作品の中でつぐみが「女であり男である」のは、もはや自明のこと。

 しかし、海江田もまた「男であり女である」ような人物として描かれています。そのことを象徴的に示しているエピソードがあるのでご紹介しましょう。かつてつぐみの祖母・十和が染色の作品展を開催した際、会場を訪れた海江田は『虹』という作品に衝撃を受けます。当時の海江田は、大学生。非常に頭でっかちな哲学青年でした。

「人間のことや世の中のことは頭で考えたらなんでもわかると思うてました/自分ではものすご頭ええと言われてたし自分でもそう思てたし/世界はすべてぼくの頭の中にあるのやとさえ思うてました」(第6話)

「頭で考えたらなんでもわかる」、つまり言葉と理屈こそが世界を構成しているというのが海江田青年の考えでした。いかにもインテリ文系男子っぽい考え方ですが、十和の作品を見た後はこんな風に考えが変わります。

「ぼくは言葉を失いました/なぜか/〝世界〟が一瞬にして理解できた気がしました/考えてもいないのに/なぜぼくは今理解したんやろう/それは人生が変わる体験でした」(第6話)

この体験をきっかけに、海江田は言葉や理屈を超えた「何か」があるということを受け入れるようになります。言葉や理屈を超える「何か」とは、自分の中の非論理的な部分、もっと言えば「男ならざる部分」です。

 つまり、男が男らしさを、女が女らしさを受け持つのではなく、自分の中にその両方が存在し得るのだということを、つぐみも海江田も強く感じて生きてきた人間なのです。

 そして、そんなふたりを結びつけたのが、十和の送った(贈った)ふたつの「鍵」であったことは非常に示唆的です。このふたりが十和の暮らしていた家で出会うことを最初から予見していたのは、鍵を管理していた十和ただひとり。つぐみにと海江田にとって、この出会い、この恋愛は思いもよらないことでしたが、十和だけは、こうなることを知っていたのです。一見相性の悪そうなふたりを鍵によって出会わせた十和は、ふたりがともに「娚」であることを見抜いていたように思われてなりません。そして、染織家や大学教員として社会に出ながら母・妻としての仕事もこなし、女でありながら下屋敷邸の主人であった十和もまた「娚」であったことを考えれば、彼女がふたりの「娚」にこの家の鍵を渡していたのは、ごく自然なことのように思えてきます。土地や建物の相続は遺言状に書き付けていた十和ですが「娚」という属性の相続は、鍵という形で、つぐみと海江田に遺したという風に読めるのではないでしょうか。


女を家に閉じ込めるでもなく
男並みの女として社会に閉じ込めることもない

 そして「娚」のふたつ目の意味は、「女と男は全く並列、等価な存在として生きていける」ということ。つぐみと海江田の間には、男女間にありがちな上下関係や優劣が存在しないのです。

 しかもそれは精神的な部分にとどまりません。労働系女子マンガの多くが「仕事と結婚」を対立関係に置く中、本作品では、つぐみが仕事を辞めるかどうか悩むエピソードが出て来ないのです。結婚や妊娠をきっかけに「仕事をどうしよう」と悩む、といったエピソードが一切ない。後につぐみは男児を出産しますが、ふつうに仕事を続けており、しかも順調に出世し続けています。

 こうしたことからも分かるように、つぐみは自分の仕事人生を変える気が全くないのです。長期休暇を取って角島へやってきたつぐみは、東京本社に戻ることなく、そのまま在宅勤務に切り替えるなど、勤務形態こそ変えましたが、辞めるとか、田舎町で女が悪目立ちしない仕事に転職するとかいったことは一切考えていない。典型的な田舎町、典型的な保守の町で、バリキャリが在宅勤務したり、地熱発電に取り組もうとしたり、突然やってきた中年男(海江田)と同居したり……よく考えれば、めちゃくちゃチャレンジングなことをつぐみはやっています。しかし、自分の仕事のやり方については決して思い悩んだりはしませんし、海江田もつぐみのやり方に一切文句を言わず、そのままのつぐみを愛し、求婚します。

「君はひとりで生きていったらええ/ぼくもひとりで生きていく/ふたりして ひとりでいきていこや……」(第15話)

つぐみが「ひとり」であることを尊重し、ただその隣にいようとする海江田の言葉は、本当に感動的です。つぐみと自分の生き方をこんな風に語れる海江田だからこそ、女を家に閉じ込めるでもなく、男並みの女として社会に閉じ込めることもないのでしょう。「ふたりして ひとり」の思想とは、ワンパターンで形骸化した愛を解体する、鋭いナイフのようなものかもしれません。

「ひとり」であることの孤独と引き替えに
女が当たり前のように働いて生きていくことを強く後押し

 そして「現実にもありそうな関係性」など思い切り無視して、フィクションだからこそ可能な、最高の落とし前をつけてくれた瞬間、胸にこみ上げてくるのは「ここまで読んできて良かった!」というランナーズ・ハイ状態。つぐみが結婚を機に主婦なるとか、夫と子どもの存在によって「ひとりであること」を手放すとかいった「現実にもありそうな関係性」に回収されていれば、こうした恍惚の瞬間はきっと訪れていないでしょう。

 「娚」という字の示す通り、ふたりは「ふたりして ひとり」であり、寄り添ってはいても別々の存在なのです。そして「愛し合うことは「ふたりがひとつになる」ことだ」などという手垢にまみれた言葉を蹴散らし、ずんずん前進していく彼らの生きざまは、「ひとり」であることの孤独と引き替えに、女が当たり前のように働いて生きていくことを、強く強く後押ししてくれるのではないでしょうか。ひとりが嫌だから結婚したい、結婚したらもうひとりだったころの自分には戻れない……そんな考えを持っている人こそ「ふたりして ひとり」の思想に触れる必要がありそうです。

トミヤマユキコ(@tomicatomica)
ライター・研究者。1979年秋田県生まれ。日本の文芸やサブカルチャーを得意分野とするライターだが、少女メディアに描かれた女の労働について研究したり論文を書いたりする研究者としての一面も。現・早稲田大学文化構想学部非常勤講師。主な論文に「安野モヨコ作品における労働の問題系」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第57輯』所収)などがある。趣味はパンケーキの食べ歩き。



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