労働系女子マンガ論!

労働系女子マンガ論! 第4回 『娚の一生』西炯子〜超エリートの女・堂薗つぐみはいかにして「娚(おとこ)」となりしか(前編) 

(2013/7/16)

労働系女子マンガ論! トミヤマユキコ


働く女子にとってのリアルとファンタジーの両極


 働き盛りの女子にとって、西炯子『娚の一生』を読むことは、リアルとファンタジー41O9vhpFdOL._SL500_AA300_の両極を高速で往復することなのではないでしょうか。リアルの極は「分かりすぎて辛い」、ファンタジーの極は「ありえなくて辛い」と言い換えてもいい。極端から極端へと感情を揺さぶられ続ける全4巻の行程は、まるでフルマラソンのよう……読み終える頃には、あれだけ辛い辛いと思い続けてきたことが嘘のような感覚、ランナーズ・ハイが待っています。

 本作品におけるリアルは、主人公・堂薗つぐみの自意識に集約されています。彼女は「女」としての自分に自信が持てない人物として描かれています。しかし彼女は「理工学部 情報工学 学士」の学位を持ち、30代半ばにして「四つ葉電機株式会社 原子力事業部 プロジェクト管理課 課長」の肩書きを持つ超エリートです。しかも、ブサイクでもなければ腹黒くもない。ついでに言えば、黒髪スレンダー美女ですし、巨乳でもあり、家事も料理も得意ときている……どう見ても才色兼備ですよね。仕事も色気もあるんだから、好きな男を選んで、好きなように稼いで生きていけばいいじゃない、以上! と言いたくなります。

 しかしながら、自分の中にある「女」部分の扱い方が分からないせいで、彼女の人生はつねに波乱含み。ことに、恋愛が全然うまくいかないのです。この自意識のあり方はいわゆる「女」をこじらせている、というやつです。つぐみ自身は「負け犬」と表現していますが「未婚、子ナシ、30代以上の女性」(注1)という「客観的評価」よりも、その裏側にべったりと張り付いた「女」としての自信のなさや恋愛に対する臆病さといった、つぐみ自身による「主観的評価」の低さこそが、彼女のこじれた自意識の源泉となっています。

 自分に自信がないため恋愛下手のつぐみですが、完璧な非モテというワケではなく、下手なりに恋愛はしています。しかし、彼女が追いかけるのは、妻帯者ばかり。

「でもさ 堂薗って不思議だったよね/すげー結婚したがってたくせにさ/入社当時から彼女や妻持ちにばっか入れあげてさー(中略)そのくせ俺らみたいな完全なフリーに目もくれなくてさー」(第13話)

これは、つぐみの同僚男性だった「吉田」の証言。目の前にたくさん空き家があるのに、遠くの売約済物件ばかり狙う女の心性は、吉田のような独身男性にとって「不思議」なものなのです。そして、既婚男性からすれば、売約済物件を訪れてくれる女は、これ以上ないくらい「都合のいい女」です(「イイ女」とは似て非なるもの)。しかもつぐみは、心変わりをする心配さえ要らない女として描かれています。その証拠に、妻とは離婚するだのなんだのと言って、つぐみを5年も待たせた挙げ句、海外に転勤してしまったかつての不倫相手「中川」は、シレっと帰国した後、つぐみにこんなことを言っています。

「君 結婚は俺としか考えられないって言ってたから」(第17話)

なんなんだよコイツいけしゃあしゃあと……! 恐ろしいほどの自信家ぶりですが、中川をここまで思い上がらせたつぐみの愛人体質にこそ注目せねばなりません。


幻想のイイ女と自分をくらべて落ち込む、独り相撲状態

 思うに、東京本社を離れ、故郷に戻ると言っても解雇されないどころか、在宅勤務が許され、地熱発電のプロジェクト推進を任されてしまうといった「超エリート部分」を除けば、つぐみみたいな女の人って、案外珍しくないのではないでしょうか。学歴なり美貌なり、ハタから見ると「イイもん持ってるな」と思うような人なのに「いやいやわたしなんか」と言いながら、全力で後ずさりしていく女。もっと素敵な人と素敵な恋愛ができるハズなのに「いやいやわたしなんか」と言いながら不毛な恋愛ばかりしている女。誰と(何と)くらべて「わたしなんか」なのか、よく分からないところも特徴のひとつ。幻想のイイ女と自分をくらべて落ち込む、独り相撲状態。

 こうした過剰な謙虚さは、ときに身近な友人をもイラつかせることがあります。つぐみも、仲の良い同僚「秋本岬」から「嫌み」だと言われているのでした。

「田舎の大学からうちみたいな大企業に入って気がついたら誰もできないような仕事してる/〝優秀だからな〟ってみんな言うけど/どれだけ努力してきたかあたしは知ってる/努力しても何も残せなかったあたしのことなんか見下したっていいのに/しないのよ あんたは立派だわ/そのくせ男で不幸になることでセコくバランスとってるんだわ/違う?」(第3話)

 たとえ仲良しであっても、つぐみの謙虚さは「嫌み」に感じられてしまうし、不倫体質も同情するどころか「男で不幸になることでセコくバランスとってる」と評価されてしまう。とくに、秋本は好きな男に向かって「あんたのためなら死ねる」と言えちゃうような女なので、なおさらつぐみにイラついてしまうのでしょう。

 しかし、自分に自信がない女が恋愛をすると「好きになってもらえただけでもありがたい」と思いがちで、さらにその恋愛が不倫となると「ワガママを言わず堪え忍ぶ」とか「バレないように付き合う」とか、そういうテクニックばかりが上達してしまうんですよね。不倫に最適化すべく、自分をカスタマイズしてしまう。どれほど仕事ができても「女」部分には自信が持てないし、なけなしの「女」部分を武器にしようとすれば、同世代や年下の男よりは年上をターゲットにすれば、相対的には「若い女」でいられる。しかし年上の男には、当然のことながら妻帯者も含まれてしまう……この感じ、つぐみと同世代ならば自分のこととして、あるいは身近な友人のこととしてめちゃくちゃリアルに響いてくるのではないでしょうか。

 もしも彼女が自分の中の「女」の扱いに長けていれば、ある種の「プロ」として、誰にも気づかれずに楽しく不倫を続けるなり、思い切って正妻から略奪するなりできていたでしょう。しかしつぐみは恋愛の「アマチュア」。ただでさえ恋愛が不得意なのに、既婚者を狙いに行っては玉砕し、世間からは不倫女の烙印を押され、さらに自信を失っていく。まさに負のスパイラルです。


父親の包容力と、恋人の熱情と、弟の無邪気さ
奇跡のファンタジー男・海江田


 こうした閉塞状態から逃れるようにして、つぐみは東京を離れ、祖母・下屋敷十和の家がある「角島県」の田舎町へとやってきます(作者の故郷、鹿児島県がモデルになっています)。長期休暇をとり「気兼ねしなくていい静かな場所にいきたい」(第1話)と思ったつぐみは、入院中の祖母を見舞いながらのんびり暮らしていたのですが、祖母の死によって事態は急変。というのも、見知らぬ中年男との同居生活が唐突にスタートしてしまうから。

 同居人の名は海江田醇。51歳、大学教授、専門は哲学。週刊誌連載を持つこの有名教授は、同年代の男たちに比べると若く見えるし、背も高い。中年イケメンといった風情です。友人の大学教授が病気療養することになり、その代打として角島にやってきたのですが、なぜか自分では部屋を借りず、十和の家の離れに寝泊まりしています。家族でもないのに十和から鍵を預かり、いつでも好きな時に使っていいと言われるほどの関係……どうやら過去に色恋沙汰があった模様。けれど、遊び人の独身貴族といった雰囲気は全くなく、親に捨てられ養父母のもとで育った過去がそうさせるのか、いつもどこかに孤独の陰が。

 こうした人物造形を読めば分かる通り、本作品におけるファンタジーは、海江田醇その人に集約されています。スペックだけではなく、言動もこれまたファンタジー。マンガだからこそ可能な「極上のツンデレ感」があります。

 つぐみのことを「君つまらんわ」(第2話)とバッサリ斬り捨てたかと思えば、つぐみが紛失したネックレスを土砂降りの雨の中探し出してきて首にかけてやり「きれいやで」(第4話)と言ってのけたりするのが、キザだけどすごくイイ! そしてつぐみが「いい年をして自分にいつまでも自信がなくて/自分だけを見てくれる人と向かい合う自信がないのよ/そのくせ人には愛されたいの」(第13話)などと少々めんどくさいことを言っても、まったく意に介しません。こじらせ女子の扱いに長けているばかりか、手フェチ、眼鏡フェチ、枯れ専のみなさんにはたまらない激萌えポイントも搭載している海江田。向かうところ敵ナシです。

 父親の包容力と、恋人の熱情と、弟の無邪気さをベストバランスで掛けあわせた奇跡のファンタジー男・海江田。彼がつぐみと少しずつ心を通わせるにつれ、読者はリアルとフィクションの間で大きく引き裂かれてゆくことになります。

①    つぐみのこじらせぶりが分かりすぎて辛い
②    海江田はあまりにもイイ男だ
③    つぐみは海江田に愛されている
④    つぐみと同じくらいこじらせてるわたしの住む世界に、海江田がいなくて辛い

『娚の一生』の素晴らしさは、リアルとファンタジーの間を行ったり来たりしながら、いつの間にか「わたしは限りなくつぐみに近いけれどつぐみではなく、わたしの周囲に海江田らしき男がいない」という事実に読者が打ちのめされる点にあるのではないか? わたしはそんな風に考えています。冒頭で触れた「ありえなくて辛い」というのは、海江田のような男が実在しないことに対する辛さなのです。

 そして、少女マンガは「現実の〈私〉やその周りの〈世界〉を、どう解釈するか」の手がかりが描かれていると述べたのは宮台真司ですが(注2)、『娚の一生』というマンガを読んで〈私〉や〈世界〉を解釈しようとした場合、つぐみと〈私〉がリンクすればするほど、海江田いない〈世界〉ばかりが際立ってゆきます。つぐみがリアルを、海江田がファンタジーを体現している以上、海江田がわたしたちの生きるこの〈世界〉に存在することは難しい。だとすれば、『娚の一生』とは、読めば読むほど〈私〉と〈世界〉の間で引き裂かれざるを得ない物語だということになります。この引き裂かれ方は、ある意味で非常に残酷なワケですが、しかし同時に、この残酷さに身悶えすることこそ、本作品を読む醍醐味だと言えるでしょう(注3)。
(後編に続く)


(注1)
酒井順子『負け犬の遠吠え』(講談社)2003年10月

(注 2)
宮台真司、石原英樹、大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体』(ちくま文庫)2007年2月

(注3)おそらく、おかざき真理『&』(祥伝社)を読んでいても似たような感覚に陥るという方がいるのではないでしょうか。恋愛下手だけど仕事熱心な 女主人公と、彼女のこじれた自意識を少しずつ変えていく年上の男、という構図に共感したり萌えたりしながら、同時に「そんなもん現実にはない!」と絶望する。『娚の一生』同様、マンガと読者の実人生をリンクさせて読むことの喜びと辛さを読者に与えてくれる素晴らしい作品です。

トミヤマユキコ(@tomicatomica)
ライター・研究者。1979年秋田県生まれ。日本の文芸やサブカルチャーを得意分野とするライター だが、少女メディアに描かれた女の労働について研究したり論文を書いたりする研究者としての一面も。現・早稲田大学文化構想学部非常勤講師。主な論文に 「安野モヨコ作品における労働の問題系」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第57輯』所収)などがある。趣味はパンケーキの食べ歩き。

 

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