労働系女子マンガ論!第25回『動物のお医者さん』佐々木倫子 〜ステレオタイプに頼ることなく描かれる「女性研究者」
(2022/10/11)
男性の研究者や大学教員が登場する話はあるが
女性になると一気に減る
わたしはマンガの研究者で大学教員です。そして専門は、少女・女性マンガに描かれた女性の労働です。自分で言うのもなんですが、そこそこキャリアも長いですし、読んだ作品の数もそれなりにあります。しかし、それでも、いまだにお目にかかれない作品群というのがあります。それは「女性研究者」を扱ったもの。つまり、わたしのようなひとをマンガの中に見つけるのが難しいのです。男性の研究者や大学教員が登場する話はそれなりにあるのですが、女性になると一気に減るんですよね……。
研究者の人生をざっくり説明すると、以下のようになります(専門分野によって順番が異なる場合もありますが、だいたいこんな感じ)。
大学→大学院の修士課程→博士課程(博士号は取得したりしなかったり)→オーバードクター・ポストドクター→大学や研究所の助手・助教→非常勤講師→大学の常勤講師(講師・准教授・教授)、もしくは、民間企業の正規職員として就職
マンガに限らずですが、フィクションに登場するのは、「男性教授」であることが多いんですね。それが悪いとまでは言いませんが、研究者すごろくからすると、教授というのは完全に「あがり」なんですよ。ゲームならば、全クリしちゃってる状態。それが無敵っぽくてかっこいいのはわかるんですが、当事者からすると、教授以前のキャリアにだって、紆余曲折のドラマが山ほどあるぞ〜と言いたい。が、研究者の下積み時代っていかんせん地味なので、注目されないんですよね。さらに女性研究者の下積み時代となると、マイナーすぎて、みんなの視界から完全に消えちゃってる感じがします。
世間のイメージする女性研究者ではなく
菱沼聖子という唯一無二の人間が、読むほどにちゃんと立ち上がる
そう考えたとき、『動物のお医者さん』というのは、実に貴重で、ありがたい作品なんです。H大学の獣医学部を舞台にしたこの物語には、「菱沼聖子」という女性研究者が登場します。彼女は、公衆衛生学講座に所属する博士課程の院生なんですが、その後、オーバードクターになり、民間企業に就職します。女性研究者を出してもらえるだけでもありがたいのに、博士課程から就職にいたる道のりも描かれているなんて。同作のメインキャラクターはハムテル(公輝)とその友人・二階堂ですが、彼らが獣医学を専攻する学部生として成長するすぐ隣で、菱沼さんが院生として成長する様子もまた、しっかりと描かれています。
院生にとって一番の難関はやはり就職です。これは当事者としても痛感するところです。学会発表や博士論文の執筆も大変ですが、やはり就職の大変さは段違い。「新卒」を採用するのが当たり前と思われているこの国で、大学院生の就職はそもそも不利です。その上ポストが少ないので、ぼんやり待っていても順番なんて回ってこないですし、研究者として優秀でも、就職で苦労するひとはたくさんいます(怠け者のわたしがいま大学で働けているのもは奇跡に近い)。文系にくらべると、理系は大学のほかに民間の研究所もあるのでまだマシ、と言われたりしますが、文字通り「まだマシ」レベルのものでしかなく、どこも厳しい状況。博士課程を終えた菱沼さんもまた、その厳しさを味わうことになります。
3月で博士課程を終了し4月から菱沼聖子の身分は
オーバードクターとなる←博士課程を終えてなお大学に居残ること
給料はもちろんなく研究費(授業料のようなもの)を払う
学割がきかなくなる
ホケカンも行けなくなる ホケカン→保健管理センター
失業保険もおりない
ないないづくし
ないづくし〜が
4月からの聖子の生活である
……こうした暮らしを続けながら、同時に就活もするわけですね。彼女はとてもおっとりしていますし、「ヘンな院生」と紹介されてしまうくらい、クセの強い女子ではあるのですが、研究に関してはとても熱心で、飽きたり辞めたりする気配がまるでありません。つまりプロ志向。そのため、見合い話を持ってこられてもすぐ断ってしまいますし、求人があっても、気に入らないと「そんな書類書きばっかりの仕事イヤです」とはねつけています。結婚したり、適当な企業に就職したりして、研究は趣味程度にやっていくというルートは想定していないわけです。そんな彼女は、母親とこのような会話をしています。
菱沼「おかあさん大学に9年もいたあげくに就職がないなんてそんなみっともないこと話してるの近所の人に」
母親「話してないわよそんなみっともないこと」
菱沼「みっともないこと…」
ここには、9年かけて専門性を高めまくっても、就職がないというだけで「みっともない」と思って/思われてしまうつらさがはっきりと描かれています。でも、「院生って頭いいんでしょ、人生楽勝でしょ」と思われるよりは、はるかにいい。菱沼さんは、そういう世間のイメージをブチ壊してくれる存在だと思うのです。
その証拠に、彼女は専門分野については詳しいけど、それ以外はてんでダメ。研究熱心だからといって、研究に全振りして女を捨てているわけではなく、とてもオシャレ(PINK HOUSEやINGEBORGなど金子功がデザインした服を元ネタにしているようなので、かなりの着道楽)。喋りも動きもスローモーで、才女によくあるキビキビ&ハキハキした態度ではありません。つまり、世間のイメージする女性研究者ではなく、菱沼聖子という唯一無二の人間が、読むほどにちゃんと立ち上がってくるんです。あと、少女マンガに登場する妙齢女子であるにもかからわず、作中の誰とも恋仲にならないんですよ。女性キャラ=恋愛要員、というベタな設定をガン無視して、淡々と研究者人生を歩んでいるところも最高です。
女性研究者の物語が、ステレオタイプに頼ることなく描かれることは、偏見や差別を助長しないためにも大事なことだと思います。わたしはかつて参加した合コンで院生だと言った瞬間、「俺、頭いいひとと話せないから!」とキレ気味に言われたことがありますが、あれなんかは、まさにステレオタイプの弊害。わたしがどういう人間か少し喋ってから判断しても遅くないのに……。ああいうひとたちにこそ『動物のお医者さん』を読んでほしいものです。
ロールモデルが少ない状況にあっては
ひとつでも多くのサンプルがあった方がいい
さて、オーバードクター1年目はどこにも就職できなかった菱沼さんですが、その翌年、念願の内定を獲得します。
「血が好きなことではほかの誰にも負けません〜/おねがい採用して〜」
ほかの学生が面接しているところに割って入ってこのセリフ(笑)。どんな自己アピールだよという感じですが、結果オーライです。現実の女性研究者は、キャリアをめぐるさまざまな問題に苦しめられていますが、せめてフィクションの中くらいは、苦しみの先に希望があると思いたい。
あと、菱沼さんは、就職後もしょっちゅう大学に来て、自分の研究をやっているのですが、これもすごくいいと思います。作劇的には、菱沼さんをずっと出しておいた方がおもしろい、ということなんでしょうけど、女性研究者が社会に出た後どうなっていくのかをリアルタイムで後輩たちに見せておくことには、一種の啓発効果があるはず。菱沼さんに憧れる女子学生が出てこないとも限りません。
とにかくロールモデルが少ない状況にあっては、ひとつでも多くのサンプルがあった方がいい。まあ、菱沼さん自身はそんなこと考えてなさそうですが、無意識・無自覚のまま、周囲に「女性研究者だって人間だし、いろいろだよ!」と知らしめてくれたことには、本当に感謝しかありません。
トミヤマユキコ
1979年、秋田県生まれ。早稲田大学法学部卒業後、早稲田大学文学研究科に進み、少女マンガにおける女性労働表象の研究で博士号取得。ライターとして日本の文学、マンガ、フードカルチャーについて書く一方、東北芸術工科大学芸術学部准教授として教鞭も執っている。2021年から手塚治虫文化賞選考委員。
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