労働系女子マンガ論!第21回『アラベスク』山岸凉子〜「自立した女」のモデルのひとつは、バレエマンガにある
(2022/6/7)
選ばれ愛される受け身のお姫様ではなく
自分の力で夢を掴む能動的なヒロイン
少女マンガの世界には、昔からバレエマンガの系譜というのがあって、夢と憧れを詰め込んだ存在(≒お姫様)としてバレリーナを描き続けてきました。
ただ、バレリーナって、読者をうっとりさせる存在ではあっても、お城住まいの優雅な暮らしをしているわけではないんですよね。美しさと厳しさ、どっちもあるのがバレエマンガのいいところ。美しく華やかなイメージとは裏腹に、レッスンはしんどいですし、配役をめぐるライバル争いもあって、ヒロインの肉体的・精神的な負荷はかなりのものです。しかし、だからこそ、選ばれ愛される受け身のお姫様ではなく、自分の力で夢を掴む能動的なヒロインを描くことができる。「自立した女」のモデルのひとつは、バレエマンガにあると言っても過言ではありません。
そんなバレエマンガは、芸能界を舞台にした労働系女子マンガだと言うこともできます。ヒロインにとってバレエは、成人するまでの習い事なんかじゃなく、一生をかけて取り組むべき仕事ですし、単にバレエが好きなだけではどうにもならない場面にも山ほど出くわしますからね。華麗にして苛烈! スポ根要素もある労働系女子マンガ、と言ったところでしょうか。
今回は、数あるバレエマンガの中でも、古典的名作として名高い山岸凉子先生の『アラベスク』を取り上げ、労働系女子としてのバレリーナを見ていきたいと思います。
ウクライナ共和国のキエフにあるバレエ学校に通う
主人公ノンナ
本作の主人公「ノンナ」ことノンナ・ペトロワは、ウクライナ共和国のキエフにあるバレエ学校に通っています……が、最初はまったくの劣等生です。優秀なバレリーナである姉のイリーナや、姉を褒めそやす母のもとで、かなり肩身の狭い思いをしています。バレエをやるには少々大柄な168センチの体躯を持ち、乱暴で雑な踊りしかできず、成績は落第寸前。バレエを愛する気持ちはあるのに、結果がついてこないノンナは、自分の将来についてこんなことを考えています。
バレエに生きてるママにとって才能のない娘なんかかえりみるヒマなんてないのよ
落第したら………労働学校にでもはいるか……
テヘ! あたしなんかにできる職あるかしら
落第すればバレエで食べていく道は途絶えてしまいますが、かといって、他の仕事ができるとも思えない。「わたし自身バレエの中で生きている/やめられないわ」……それがノンナの正直な気持ちです。へたくそだろうがなんだろうが、ここでやっていくしかない。ほぼ退路を断たれたような状態から、物語ははじまります。
彼女の運命が大きく変わったのは、学校に「ミロノフ先生」ことユーリ・ミロノフが現れ、レニングラード・バレエ学校にスカウトしてくれたこと。「金の星」と呼ばれる超有名ダンサーの彼は、後進の育成にも熱心で、ソビエト各地のバレエ学校を視察しては、見込みのある子を自分が指導者として所属する学校に編入させていたのでした。
優秀な姉と比較される暮らしの中で、自分なんてダメだと思い込んでいたノンナですが、ミロノフ先生が選んだのはイリーナではなくノンナです。「未完の大器」「新しい星」を求めていると語る彼の言葉を信じて、ノンナはひとりレニングラードへ向かうのでした。
ノンナを成長させたのは
並外れた自己肯定感の低さ
——で、ここからバレエ学校での修業がはじるのですが、レニングラート・バレエ学校はエリート校なのもあって、学生がプロの現場に行く機会がかなりあるんですね。実力さえあれば、卒業前から客前に出てパフォーマンスを披露することができる。半分学生、半分社会人のような立場です。みんなが出世のチャンスを狙っていますから、当然まわりはライバルだらけ。ギラギラ、ギクシャクは日常茶飯事です。
いくらミロノフ先生に見出されたとは言え、劣等生だったノンナがいきなり究極の実力社会にぶちこまれたのですから、すぐにでも逃げ出してしまいそうなもんですが、彼女はこの世界を実にたくましくサバイブしていきます。それができた理由は、なんと言ってもノンナの自己肯定感が低かったからです。
彼女を見守る大人たちによれば、ノンナのいつだって自分を過小評価するところが「恐ろしくもある」のであり、現状に満足し甘えるところがないから「とどまるところしらず」でもあるとのこと。たしかに、自己評価の低さをエネルギーに努力し続けることができれば、伸び代は無限大です。
近頃では自己肯定感が低いことはあまりよくないとされ、自分を卑下するような呪いは積極的に解いていきましょう、という話になっていますが、本作ではノンナの並外れた自己肯定感の低さが、逆に彼女を成長させています。自己肯定感の低さを悪いものと決めつけすぎてはいけないのかも……。
他者の言葉を蓄えながら前進していく
踊るときはひとりだけれど、決して孤独ではないという境地へ
自己肯定感の低さとも関わるところだと思いますが、ノンナは年長者のアドバイスをよく聞きます。信用できる大人だなと思ったら(ここ大事、じゃないと悪人に騙されてしまう)、彼らの言葉を素直に吸収できるのは、彼女の美点です。作中、配役をめぐってラーラというライバルに敗れたノンナは、衝動的に家出してしまうのですが、そのとき自分を拾ってくれた小さな町のベテランプリマ「オリガ」の言葉にも、きちんと耳を傾けています。
ほんとに私もはやく気づくべきでしたよ
トウでいつまでも立っていることや何回も回れることだけがバレエではないということをね
ほんとに私達の世界はきびしい
若いころは技術を追うのに一生懸命で
バレエの情緒性を理解できるようになった今はもう体がいうことをきかないとはね
先ほどオリガのことを「ベテラン」と書きましたが、劇場での彼女は、若い世代から落ち目のプリマと見なされ、なにかと煙たがられているんですね。しかし、ノンナはそうした周囲の空気に流されることなく、オリガの踊りをちゃんと見て、本物だと思ったからこそ、彼女の言葉を聞き入れます。
若いうちは技術力の高さばかり気にしてしまうダンサーが多い中、ノンナはオリガから大いに学び、「あたしだけの情緒の世界を!」と願うようになります。これは、多くの仕事に当てはまるものですよね。技術だけを磨いていても、いつかは行きづまる。そこになにをプラスできるかで、、職業人としての未来は違ってきます。しかしそれを、衰えの見えはじめた年長者に言われて素直に信じられるだろうか? そう考えたとき、「やっぱ見る目あるな〜ノンナは!」と言いたくなるわたしなのでした。
他者の言葉を糧としながら前進していくノンナの様子は、他のエピソードからも見てとれます。たとえば、実力派ダンサーでありながら不幸にも病に倒れたバレリーナ「マチュー」から「そう…これからのちノンナ・ペトロワはクレール・マチューのバレエへの執念を背負って生きる…」と言われたノンナは、それを「呪い」ではなく「お守り」のように大事にします。
マチュー聞こえる?
あたしはあなたのバレエへの執念を背負っていくわ
あたしのできうるかぎり……
バレエはそもそも競争率の高い世界ですから、途中退場する者も多いわけですが、ノンナは去りゆく者たちの痛みや悲しみから決して逃げません。むしろ、バレエにまつわる清濁を併せ呑む中で、どんどん強くなっていく感じさえあります。おそらくノンナのバレエ修行は、身体的な鍛錬だけにとどまらなかったのです。広い世界に出て、他者の言葉を聞くこともまた、彼女を成長させましたし、ネガティヴな感情に触れることもまた、彼女を強くしました。そうしてノンナは、踊るときはひとりだけれど、決して孤独ではないという境地へと至ります。
『アラベスク』の世界において、バレエは富裕層のものとされていますから、ノンナ自身が経済的な悩みを抱えることはありません(その点に関してはど田舎の貧困層から成り上がった「ヴェータ」が体現してくれるという役割分担になっています)。お金の心配が要らないという状況で、仕事そのものと向き合ったとき、自分に何ができるか。それをノンナは問い続け、唯一無二のプリマとなったのでした。すごい。キエフで大柄だとか踊りが雑だとか自信なさげに言っていたあの頃が嘘のようです。
本作は恋愛マンガでもありますから、最後にノンナとミロノフ先生がくっつくんですが、最後の最後まで自分の気持ちを言わず、ストイックに指導してきたミロノフ先生は、けっこういい男なんじゃないかと思いました。愛する者がどんなつらい目に遭っても、すぐに手を差し伸べずじっと待つ(そして命にかかわるときだけ本気出す)。お姫様を苦境から救い出すだけが王子様じゃない、とお伝えして筆を擱きたいと思います。
(追伸)山岸凉子先生は、今般のウクライナ危機に関して、ノンナがウクライナのキエフ出身であることなどを理由に、在日ウクライナ大使館と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に寄付を送ったそうです。いつ読んだって最高のバレエマンガですが、いま『アラベスク』を読むことにはきっと意味がある。そう思って今回この作品を取り上げましたので、原作の方もぜひお読みください。どうぞよろしくお願いいたします。
トミヤマユキコ
1979年、秋田県生まれ。早稲田大学法学部卒業後、早稲田大学文学研究科に進み、少女マンガにおける女性労働表象の研究で博士号取得。ライターとして日本の文学、マンガ、フードカルチャーについて書く一方、東北芸術工科大学芸術学部准教授として教鞭も執っている。2021年から手塚治虫文化賞選考委員。
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