労働系女子マンガ論!

労働系女子マンガ論!第20回『ベルサイユのばら』池田理代子〜自分の運命を切り拓く意欲あふれる「ベルばら」の女たち〈後編〉 

(2022/5/11)

労働系女子マンガ論! トミヤマユキコ

前編はこちらです!

 

12歳で親元を離れ輿入れしたマリー
母親の仕事を間近に見ていたら、また違った人生が開けたかも
 

 9784088501086さて、次はオスカルを重用した「マリー・アントワネット」ことマリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・オートリッシュについて考えてみましょう。

 彼女の母親であるマリア・テレジアは、女帝としてオーストリアを治めた大人物でした。子どもを産み、仕事もして、という意味では最強のバリキャリです。ですが、娘は母親から政治的な才覚を受け継がず、天真爛漫でちょっと怠け者の少女に育ちました。フランス王室に嫁いだあとも、散財して遊びまくっており、財政はみるみる逼迫。国家を経営するという観点がありませんし、財政赤字の尻拭いは大蔵大臣の仕事としか思っていません。

   そんな彼女が自分の使命に目覚めたきっかけは、愛する者と出会ったことでした。かわいい子どもたちはもとより、不倫ではあったけれども真剣に愛したフェルゼンの存在があってはじめて、国のことをしっかり考えなくてはと思うようになったのです。

   注目したいのは、目覚めたときの彼女が「男にならねば」と言っていること。マリー・アントワネットにとって、社会と対峙するのは男の仕事なのですね。実母が偉大な為政者だったというのに、なぜこのような考え方になってしまったのかちょっと不思議ですが、12歳で親元を離れ輿入れしたマリーには、母親の仕事がちゃんと見えていなかったのかもしれません。もともと地頭のよいマリーのことですから、もう少し大きくなるまでオーストリアにいて、母親の仕事を間近に見ていたら、また違った人生が開けたかも。そう思うと、ちょっともったいないような気もします。



 貴族の血筋を引きながら

あくまで庶民の側に立って生きようとするロザリー

 

 『ベルばら』では、男として働き続けたオスカルと後天的に男になることを選んだマリー・アントワネットのコントラストがとくに目立ちますが、他にも注目すべき労働系女子がいます。

 中でもとくに印象的なのは「ロザリー」です。その日の食事にも困るような貧しい家庭で育った彼女は、母親を馬車によるひき逃げ事故で亡くした際、産みの母が別にいること、しかもそれが貴族であることを知らされます。もともと母親が貴族の家で働いており、父親がそこの当主であることは聞かされていたのですが、まさか母親まで貴族だったとは。

   ロザリーは、育ての母を事故死させた貴族の仇討ちをしたい、そして実母を探したい、という強い意志のもと、オスカルの助けを借りつつ宮廷に出入りするようになります。貧乏暮らしが長いせいで、一人称こそ「あたし」になってしまいますが、優美なドレス姿は堂に入っていますし、階級上昇に成功した女としてなんとかやっていけそうです。ところが、彼女はふたたび町娘へと戻ってしまいます。詳しくはマンガを読んでいただきたいのですが、貴族社会のどうしようもなさに振り回され、愛想を尽かしたのでした。すっかり貧乏に慣れていて、どんな仕事でもやってやるという逞しさが備わっていたからこそ、未練を残すことなく貴族の暮らしを捨て去れたのかもしれません。

  その後のロザリーの人生もかなり興味深いものです。結婚した男は新聞記者ですし、自ら志願して死を待つばかりのマリー・アントワネットのお世話係を買って出たりしています。なんというか、社会というものを考えながら生きている感じがあるんですよね。地に足のついた社会運動家とでも言うんでしょうか。貴族の血筋を引きながら、あくまで庶民の側に立って生きようとする姿が、わたしにはとてもカッコよく見えます。

 これと対照的なのが、ロザリーの姉である「ジャンヌ」です。母親と妹を捨てるようにして貴族社会に潜り込み、上には上があるとわかると、ありとあらゆる手を使って、てっぺんを目指す。文書偽造も殺人もなんのその。なんだかひとりだけVシネの世界なんですよ。やたらギラギラしている。上昇志向が強すぎるあまり、最後は虚言にまみれた詐欺師(ほぼ狂人)として散っていきます。

 

「適当に結婚して夫に食わせてもらいたい」的なぼんやり女子は出てこない
当時の日本社会をサバイブせんとする女子たちを励ましたのでは

 

 『ベルはら』ではこの他にも娼婦からルイ15世の愛人にまで上り詰めた「デュ・バリー夫人」や、マリー・アントワネットに取り入り莫大な金をひっぱり続けた「ポリニャック夫人」などの「ずるい女」が複数登場しますが、最後はみんな悲惨さを漂わせながら物語の外へと退場していきます。ここからは「自分のことだけ考えてなりふり構わず行動したやつは最後に転落する」というメッセージがはっきりと読み取れますよね。「今だけ」とか「自分だけ」といった精神で乗り切れるほど、世の中は甘くない。長期的なヴィジョンがないやつに冷たいのがベルばらの世界です。

 わたしがいま『ベルばら』を読んで改めて思うのは、善良なキャラにせよ、悪徳なキャラにせよ、自分がどういう人間であるか、自分の意志がどこにあるのかをしっかり表現できる女子しかいないということです。これだけ女性キャラがいるにもかかわらず「適当に結婚して夫に食わせてもらいたい」的なぼんやり女子がまったく出てこないんですよ。マリー・アントワネットも最初こそぼんやり女子でしたが、最後には己の役割をはっきり自覚しますし。正しく生きるにしろ、ズルく生きるにしろ、みんな自分の運命を切り拓こうとする意欲にあふれている。それが『ベルばら』の女たちです。

 本作の連載時期(1972年-73年)がウーマンリブ(※)の時代に重なっていることを考えるとき、わたしはそこにひとつの共通項を見る思いがします。自己実現。性別役割分業からの解放。いい子じゃなくても、女らしくなくても、あらゆる女が自分らしく働いて生きていけますように。『ベルばら』とは、大昔のフランスを描いているようでいて、その実、当時の日本社会をサバイブせんとする女子たちを励ますものだったのではないでしょうか。

 

 

※ウーマン・リブ:ウイメンズ・リベレーションwomen’s liberationの略。アメリカを中心とする先進資本主義諸国に広がった女性運動のひとつで、女性のために男性と平等な権利を求め、男性と対等の地位や自分自身で職業や生き方を選べる自由を獲得しようとした。日本では、1960年代後半の全共闘運動がそのきっかけと言われており、1970年の国際反戦デーには日本初の女性による女性解放街頭デモが行われている。

 

 

トミヤマユキコ

1979年、秋田県生まれ。早稲田大学法学部卒業後、早稲田大学文学研究科に進み、少女マンガにおける女性労働表象の研究で博士号取得。ライターとして日本の文学、マンガ、フードカルチャーについて書く一方、東北芸術工科大学芸術学部准教授として教鞭も執っている。2021年から手塚治虫文化賞選考委員。

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