労働系女子マンガ論!

労働系女子マンガ論!第15回 『ちひろ』『ちひろさん』安田弘之 〜「周縁」で働く女の自由と孤独 

(2015/3/2)

労働系女子マンガ論! トミヤマユキコ

 

『ショムニ』の安田弘之
もうひとつの労働系女子マンガ

chihiro江角マキコ扮する脚立を担いだミニスカートのOLが、会社組織の理不尽さにズバズ バ切り込むドラマ『ショムニ』。彼女から繰り出される最強の正論に胸がスッとした人も多いのではないでしょうか。

会社員として「問題アリ」もしくは「能力ナシ」と判断された者たちが流れ着く「ショムニ=庶務二課」は、社内最弱&最底辺のポジションなわけですが、だからこそ組織の矛盾がよく見える。また、社内の人たちから放って置かれ、組織の論理に取り込まれていないからこそ、言えることがある。

 

chihirosanつまり「周縁」にいるために負け犬扱いされている者こそが「中心」の愚かしさを指摘し、腐りきった会社組織を再生する立役者になっていたわけです。

同ドラマは、一般職OLに「周縁」の存在を引き受けさせました。男勝りのタイプから、女らしさを巧みに利用するタイプまで、さまざまなOLが登場していますが、それぞれのキャラクターはコミカルでありながら、しかしかなりリアルに描かれています。重くなりすぎないように調整されてはいるものの、会社組織におけるOLたちの辛さ苦しさは、かなりはっきりと表現されていました。

ちょっと意外に思うかも知れませんが、このドラマの原作を手がけたのは、安田弘之という男のマンガ家です。ドラマ版のヒットによって、彼が労働系女子を描く才能にあふれているということはもう十分周知されたように思いますが、実は、彼にはもう一作品、労働系女子を主人公にした素晴らしいマンガがあります。それが『ちひろ』シリーズです。個人的には『ショムニ』以上だと言いたいぐらい、本当にいい作品です。

 

「本当の自分」を見せない道を選び
「ウソつき」として生きることの豊かさを享受

『ちひろ』の主人公である「ちひろ」は、風俗嬢です。シリーズ冒頭では「ぷちブル」というファッションヘルスで働いています。性感50分、指名料込みで1万6千円。ホワイト風俗とブラック風俗があるとすれば、ぷちブルは明らかにホワイト風俗。出入りの客や、嬢の勤務状況などから察するに、ホワイトの中でもけっこうな優良店のようです。

ぷちブルにおけるちひろは「これだけ指名数が増えても仕事の質が落ちないってのは/店の宝だね〜」と言われる、大人気の風俗嬢です。ぴちぴちの若い女の子が入ってくると順位が落ちますが、しばらく経つとまたお店のナンバーワンに返り咲いてしまいますし、ライバル心を燃やす女たちがどれだけいようとも、つねに上位をキープ。むちゃくちゃ美人とか、ものすごい巨乳というわけではないので、パッと見ただけでは彼女の凄さは分からないのですが、男たちはエロいだけでも優しいだけでもない彼女の魅力に惹きつけられてゆきます。

彼らがちひろのどこを見て、何を好きになっているのか……そのヒントとなるのは、「イミテーション」という言葉です。ちひろは自分のことをイミテーションだと語っています。そもそもちひろという名前自体が源氏名ですし、客の求めに応じてナースやスチュワーデスのコスプレもしますから、これまた偽物だと言えるでしょう。

しかし、それより何より、内面的なものも含めた彼女の存在全てがものすごく良くできたイミテーションなのです。作中、ちひろが同僚のレイカと嫌な客にどう対応するかを話し合うシーンがあります。レイカは「客の質 見抜いて本気と手抜きのメリハリつけるのがプロの仕事ってもんじゃない」と言いますが、ちひろはそれを「甘いね」と一刀両断。そしてこんな風に語って見せるのです。

「あたしは手抜きを悟らせない/お客にバレるようなヌルい手抜きはしてないだけ」


そしてこのセリフのあとにはこんなモノローグが続きます。

「まごころ」「誠意」「やさしい」「健気」「本当の自分」etc
そういうウソをつくくらいなら
私はただの「ウソつき」と呼ばれたい


この言葉は非常に印象的です。ちひろもレイカもプロの風俗嬢としてのプライドを持っていますが、その方向性が明らかに違っています。たとえばレイカは客とのプレイ中に本気でイッてしまうことがあります。風俗嬢がオーガズムに達するということは、サービスを超えた行為であると客に錯覚させることであり、「本当の自分」を見せてもらったのだと勘違いさせる可能性があります。レイカは引き留めておきたい客に対して、疑似恋愛的なサービスをするタイプなのです。

しかしちひろは「本当の自分」をチラつかせるようなサービスをしません。どの客に対しても、ただ風俗嬢のちひろであろうとするだけ。疑似恋愛を仕掛けようとはしないのです。妻帯者の客には「美人の奥さんによろしくゥ」と言いますし、常連が他の嬢を指名することも「お客様なんだから」とあっさり許してしまいます(ちょっといじわるはしますが、かわいいものです)。さらに、ちひろの「本当の自分」を見抜いたと勘違いして、店を辞めさせ、自分の女にしようとする男たちの話は、いつだってはぐらかしてお仕舞い。

ちひろは優秀な風俗嬢ですが、その素晴らしさに惹かれ、彼女の中にもっと踏み込もうと思っても、それだけは許してもらえないのです。逆に言えば、節度と距離感を保つ限りにおいて、ちひろは客のプライベートにまで踏み込むような形で彼らを癒すことがあります。踏み込ませないが、踏み込んでいく。それが風俗嬢として働く彼女の距離の取り方です。

こうした自身の働き方について、ちひろは次のように語ります。

つなごうとする女の魔力が強いほど
それに疲れる男がこっそり逃げる
私はそれを両手に持てるだけ
かき集めているんだから


「本当の自分」をアピールし、わたしだけを見てくれと懇願し、男を縛り付けようとするやり方は、言ってみれば店の外で起こっているリアルな恋愛・結婚と同じです。レイカはそのリアリティを店に持ち込み、常連客をつなぎ止めようとします。しかしちひろは、あくまで「風俗嬢のちひろ」であり続けることによって、恋愛・結婚のリアルから男たちを解放し、ラクにしてやるのです。

ひとりの人間がさまざまなキャラを使い分けて生きていくことのメリットについては、たとえば作家の平野啓一郎が「分人」という言葉を使って説明しています。あるいはわたしたちが人間である以上にキャラ/キャラクターとして生きているのだということを精神科医の斎藤環が指摘していますが、ちひろは、そうした知見に触れずとも、野良猫のような勘の鋭さで「本当の自分」を見せない道を選び、「ウソつき」として生きることの豊かさを享受しています。

本名も、普段どんな服を着ているのかも、本当はどういう男が好みなのかも教えようとしないちひろは「たったひとりの女を愛し続けるという男らしさ」に疲れてしまった男たちにとって、実に理想的な存在です。そして、性的なサービスよりも、男がひそかに抱えている「男らしさという重圧」からの解放を心がけていることが、ちひろをいつだってナンバーワンにしてしまうのだろうと思います。

 

マジョリティであることが本当に安心で安全で
豊かな人生を約束してくれるとは限らない


『ちひろ』の続編として出版された『ちひろさん』は、風俗嬢を辞め、弁当屋「のこのこ弁当」で働くちひろを描いています。面白いのは、ここでもちひろが本名を使っていないこと。履歴書には本名を書いたのですが、結局ちひろとして働くことにしたのです。

風俗嬢だったという過去は、彼女にとって黒歴史でもなんでもありません。ですから、特に隠すことはありませんし、場合によっては訊かれる前に自分から言い出すこともあります。のこのこ弁当周辺では「元風俗嬢」の情報があっという間に流れ、そのことで少々波紋は広がりますが、ちひろ本人は人々の反応を面白がるだけで、別にどうということもなさそう。むしろそのぶっちゃけキャラによって、店に早く馴染んだくらいです。

サバサバとした態度と言えばそれまでですが、何故人生をリセットしようとしないのかという疑問も残ります。なぜなら、過去を捨てて「弁当屋の元気なお姉ちゃん」という新しいキャラで生きていくことも、決して悪いことではないだろうと思えるからです。しかし、ちひろはあくまで風俗嬢だった頃の自分と地続きの人生を選びます。

彼女がちひろとして働くことにこだわるのには理由があります。

風俗嬢になる前のちひろ、つまり、本名を名乗っていた時代のちひろは、ごくふつうのOLでした。しかし、この「ふつう」というのが、ちひろにとっては地獄以外の何物でもなかったのです。

女の子らしく振る舞うこと、OLっぽい恋愛をすること、それが「本当の自分」であるかのように見せなくてはいけないこと……「古澤綾」として生きていた頃のちひろは「一生懸命 女の子してがんばってた」けれど、それは寂しくて弱っていて「いつも すき間を埋めようと」していただけでした。そこからやっと逃げ出して、ちひろとしての自由を獲得した以上、綾である自分には戻りたくない(本名の綾に戻るのは親の前だけで十分)。それがちひろの願いです。

ふつうのOL、ふつうの女の子から脱出したことで、ちひろは自由になりました(これは、ショムニに飛ばされたことによって、言いたいことが言えるようになるあのOLたちととてもよく似ています)。マジョリティであることが本当に安心で安全で豊かな人生を約束してくれるとは限らないことを、ちひろは綾だった時代に嫌と言うほど学んだのです。

少なくとも、ちひろにマジョリティとしての生き方は合わなかった。だからOLを辞めて、風俗の世界に飛び込んだのです。お客はみんなスケベで、名前や経歴を訊いたところで本当かどうか分からない。ウソで塗り固めたような世界ですが、目を見て肌に触れれば人間性は一発で分かってしまう。そういう誤魔化しの利かない世界であることが、ちひろには合っていたのだと言えるでしょう。

これ以上女として消費されないために、究極的に女を消費する風俗業界に飛び込むというジョブチェンジが、結果としてちひろを救いました。綾からちひろへの変身は、彼女が生き延びるための戦略だったのです。ちひろとしての人生は、彼女が悩んで苦しんで、力尽くで手に入れた、大事な人生だったのです。

 

「成長を目指さない」という働き方は
一部の労働系女子にとってかなり有効な戦略なのでは

こうして綾からちひろになった彼女は、風俗嬢をやろうが、弁当屋になろうが、実に軽やかに人と関わり合い、自由に生きていくことができるようになりました。まさに、人に歴史あり。彼女は、生まれつき自由だったわけではないのです。もしそれをちひろに向かって直接指摘すれば「「本当の自分」を分かった気になりやがって」と思われそう……でも、確かに彼女は、女の子らしくしなさい、良妻賢母になりなさい、といった「中心」的な価値観の押し付けを嫌って、風俗嬢という「周縁」的な職業に就くことで、「本当の自分」を守ったのだと思います。

いい人になろうとも思わない
成長したいとも思わない
なりたい自分なんかない
努力も他人の為も嫌いな怠け者だ


風俗嬢時代も、弁当屋になってからも、ちひろは店の人や常連に愛されており、仕事を通じた自己実現は比較的容易だと思うのですが、上記のモノローグからも分かるように、彼女からは上昇志向というものがまるで感じられません。仕事に「やりがい」は求めているようなのですが、出世とか、他人から評価されたいとか、そういったことにはあまり興味がないようなのです。

客の性欲や食欲を満たすことだけを目指して、今やれることをやる。それがちひろの働き方です。この、「成長を目指さない」という働き方は、ひょっとしたら、一部の労働系女子にとってかなり有効な戦略なのではないでしょうか(注)。

というのも、成長することの素晴らしさは、今の自分を否定することと表裏一体だからです。成長しているつもりで、今の自分を否定し続ければ、心が死んでしまうことだってあり得る。ならば上を目指さず、将来を見据えず、目の前の仕事をきちんとこなすことが、結果として自分を生かすことになる。そういう生き方もアリなのだということを、ちひろは教えてくれます。

さいごに指摘しておかねばならないこと。それは、ちひろの孤独についてです。労働系女子の物語の多くが、どうしても「本当の自分」の理解者と出会い、恋に落ちるのとは違って、ちひろはそういう存在をそもそも必要としておらず、たったひとりでいる時ほど完璧&完全な人間であるように見えます。

一人の時間をちょうだい
今の私には
それが必要なの——


ちひろは自身の孤独をこのように語りますが、これは決して引きこもりたいという意味ではありません。「人間を脱ぐ/この時間がなければ/私は枯れてしまうから」というセリフもあるように、彼女はひとりきりになって「本当の自分」を確かめたいのはなく、「本当の自分」などというものがあると思ってしまう人間それ自体を辞めたいと思っているのです。

誰かを愛したがために差し向かいの孤独に陥るくらいなら、ひとりの方がまし。これはやせ我慢でもなんでもなく、真に自分の自由を守ろうとする者の覚悟であると解釈すべきでしょう。

彼女を見ていると、働き方と生き方に世間のものさしを当てることが、本当に本当にバカらしくなります。好きなところに住み、好きな名前を名乗り、とりあえず出世はしなくていいのでやりがいのある仕事をして、身近な仲間と連帯しながら、しかし誰にどう思われるかはあまり気にせず、勝手に生きる。全部真似するのは難しいとしても、その心意気だけは心に持っておきたい。そんな風にわたしは思います。


(注)余談ですが、2015年1月からTBS系列で放映中のドラマ「問題のあるレストラン」は、会社をクビになったり、離婚調停中だったりする女たちが協力してレストラン経営に乗り出す物語です。日本社会における「ふつうの女」「ふつうの人生」から外れてしまった者ばかりでレストランをやるのですが、お店の場所も、およそ表参道とはおもえないおんぼろビルの屋上。つまりこれは、「中心」にいられなくなった女たちが「周縁」でいかにいい仕事をするかという話なのです。ちなみに、彼女たちは周縁から再び中心を目指そうとしているのではありません。出世することも、有名になって認められることも、今の彼女たちの目標ではないのです。目の前の仕事をひとつひとつ丁寧に仕上げていく、ただそれだけ。しかしそれを繰り返すだけで、客は笑顔になり、彼女たちもまた笑って暮らせるのです。彼女たちが成長至上主義を捨てたことで愉快に暮らしているのとは反対に、大手企業が経営するライバル店では、ふつうの会社員として順調に出世することを望む男たちが、客を笑顔にすることすらまともにできず、業績の数字ばかりを追いかけ、やりがいも楽しさも感じていないかのような態度で勤務を続けています。このコントラストは、どう考えても「ふつうであること」から降りた女たちを肯定することへと向かっている、というより、世間に向かって「周縁上等!」と訴えていると考えるべきでしょう。

トミヤマユキコ(@tomicatomica)
ライター・研究者。1979年秋田県生まれ。日本の文芸やサブカルチャーを得意分野とするライター だが、少女メディアに描かれた女の労働について研究したり論文を書いたりする研究者としての一面も。現・早稲田大学文化構想学部非常勤講師。主な論文に 「安野モヨコ作品における労働の問題系」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第57輯』所収)など、著書に『パンケーキ・ノート おいしいパンケーキ案内100』(リトルモア)がある。趣味はパンケーキの食べ歩き。

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