労働系女子マンガ論!第13回 『はいからさんが通る』大和和紀〜はいからさんだって働いている
(2014/8/8)
乙女ゴコロをくすぐる
大正浪漫のエッセンス少女マンガ好きなら誰もが知っている歴史的名作『はいからさんが通る』。大正時代の東京を舞台に繰り広げられる、ロマンチック・ラブコメディです。主人公は、男勝りのおてんば女学生、17歳の「花村紅緒」。幼いころに母親を亡くした彼女は、男やもめの父親が勝手に決めてしまった結婚をはじめこそ嫌がるのですが、やがて婚約者「伊集院忍」を心から愛するように。しかし、ふたりの間にはさまざまな障壁が立ちはだかり、すんなり結婚というワケにはいきません。戦争あり、記憶喪失あり、別の相手との恋愛あり、大地震あり。相思相愛なのに引き裂かれ、運命に翻弄されまくったふたりがようやくゴールインする結末は、確かにハッピーエンドですが、読後感は幸せ一色というより「どうなることかと思ったが、やっと結ばれた!」という安堵をより強く感じさせるものです。
本作において、波瀾万丈の恋物語が縦糸だとすれば、横糸は大正時代の世相、文化、政治、そしてなんといっても「はいから」さんの生活です。作品のあちこちにちりばめられた大正浪漫のエッセンスが、乙女ゴコロをくすぐってきます。
「はしばみ色って何? 伊集院って名字なの?? 大正ってそんなステキな時代だったの??? 洋館ステキ! 軍服ステキ!! 女学校すらステキ!!! もうもう大興奮の「大正浪漫」だった」(注1)
こうした文章も示しているとおり、読者にとって、はいからさんたちの生活は古くさいものではなく、むしろ積極的に憧れ、真似したいと思わせるステキなものでした。実際に卒業式などで紅緒の真似をした人もいるのではないでしょうか。ハーフブーツ、矢がすりの着物、えび茶の袴、頭にはリボン、ってやつですね。
戦争や関東大震災があった大正年間は、決して平和なだけの時代ではありませんが、大和和紀が描くはいからさんの世界は、それまでの大正イメージを覆す強烈な魅力を放っていました。そして、女主人公である紅緒や彼女の親友「北小路環」のはいからぶりは、単にファッションや恋愛観のことだけでなく、彼女たちが「職業婦人」であるというライフスタイルにもあらわれています。紅緒は出版社で編集者をやっていますし、環も新聞社の記者です。
大正時代の女たちを通して
これからの女がどのように働くべきか考えられる物語
ここでひとつ指摘しておきたいことがあります。本作の舞台となっているのは大正時代ですが、『少女フレンド』(講談社)で連載が始まったのは1975年。この頃の日本は、女たちの社会進出がごく当たり前になる少し前の時期にあたります。たとえば、1960年代後半のアメリカで起こった女性解放運動「ウーマン・リブ」の波が日本にもやってきて、「男女雇用機会均等法」(1986年)の制定に大きな影響を与えたとされる「第1回ウーマンリブ大会」が開催されたのは、1970年のことです。女たちがどう働き、どう生きていくのかについて、女たちが考え行動する時代が始まろうとしていました。つまり『はいからさんが通る』は、日本社会が女の地位向上を目指し蠢いていた時期にスタートした作品だということになります。
こうした経緯を考えてみると、マスコミで働く紅緒や環のような女たちが大正期のはいからさんでありつつ、現代日本の「進歩的な女」のイメージをもまとっていることが、本作における重要な「からくり」であるとわかってきます。紅緒たち労働系女子は、大正期のイケてる女であると同時に、現代を生きる読者たち、とくに若い読者たちが「将来のわたし」を重ね合わせてみたくなるキャラクターにもなっているのです(注2)。大正時代の女たちを通して、これからの女がどのように働くべきかということを考えられる物語にもなっている……『はいからさんが通る』は表向きラブコメですが、実は労働系女子マンガでもあるのです。
「女らしさ」の型にはまることを拒否し
そんな自分を周囲に認めさせることを面倒臭がらない
本作では、仕事にまつわる紅緒の「失敗」がいくつか描かれています。まず、陸軍少尉である忍が派兵先のロシアで行方不明になり生存がほぼ絶望視された時、紅緒は実家に帰らず忍の代わりに伊集院家を守ろうと決め、手始めに車屋にチャレンジしますが、体力が続かずリタイア。その次は「時代の先端をゆくエリート職」であるバスガールの採用試験を受けますが、「さげすまれて退場」させられてしまいます。さらに知人の芸妓「吉次」のもとを訪れた紅緒は、芸者修行に励みますが、これも最初のお座敷で早くもクビになってしまいます。車屋は車を引くだけ、芸者は酒の相手をするだけ。そんな風に思って飛びついたものの、実際はそこまで簡単な仕事ではないと知る紅緒。女学校育ちの世間知らずなお嬢さんが、少しずつ労働とは何かということを理解してゆきます。そんな彼女が最後に辿り着いたのは、吉次が紹介してくれた編集者の仕事でした。しかし編集長は紅緒を激しく毛嫌いします。
「おれはてっていした男尊女卑なのだ!/したがって女はやとわん!/帰れーっ」
「な…なによっ女 女とばかにしてっ/ははーん/わかった/よーするにおそれてんのよねー/女に仕事ができるとなると男の権威が失墜すると思って」
筋金入りのミソジニスト(女嫌い・女性蔑視者)である編集長「青江冬星」は、紅緒にひどいことを言いますが、紅緒は一歩もひきません。
また紅緒は、「わたしのなくなった母は女性記者」だったのだから「女だって仕事はできます」と主張し、自分を雇うよう編集長に促したりもしています。彼女は編集長に対して、働きたいという意志と、働く能力があるということだけをアピールするのです。しかし、よく考えてみると、彼女が女学校を出てすぐ働くことになったのは、婚約者が行方不明になり、いますぐ食い扶持を稼がねばならなくなったからなのですから、そうした事情を話して雇ってもらうこともできたハズ。しかし、彼女は初対面の編集長にそのことを話しません。婚約者を失った女の子、義実家を金銭的に支えようとしている女の子、という「可哀想な自分への同情」は不必要だと言わんばかりです。可哀想な女の子として男に愛され守られるのを忌避しているかのように見える紅緒は、義実家でも、「これからは女だって仕事をもつ時代なんですよ」と語り、身内からの同情さえも避けようとする徹底ぶりです。
紅緒が「女の弱さ」をアピールしないのは、それが自分らしくないからだということに尽きます。まだ忍が日本にいたころ、花嫁修業をしていた紅緒が、最後に「どうもこう女らしくするってのは/ガラじゃないらしくって肩がこっちゃってね」と語り、しばらく休んでいた剣道の稽古を再開するシーンがありますが、これは「自分らしさ」を自分で肯定する作業に他なりません。当時の紅緒にとっては花嫁修業が仕事だったワケですが、それを「女らしく」やることは性に合わないというのが彼女の結論なのです(花嫁修業と剣道は両立可能、ということ)。また、出版社では編集長から男並みに働くことを求められ、彼女自身も「あたし恋に生きるのやめたの/これからは仕事に生きるわ/新婦人のひとりとして!」と意気込んでいますが、本人としては、女を捨てて男並みに働いているというより、懸命に働いているとついつい男並みになってしまう、といった感覚のようで、他人から女らしくないと言われると本気で腹を立てています。
紅緒は、世間の考える「女らしさ」の型にはまることを拒否し、そんな自分を周囲に認めさせることを決して面倒臭がりません。彼女は「自分自身」でいたいという願いを決して手放さないのです。旧来の少女マンガであれば、女主人公が自分らしさを守りたいと思った場合、「そのままの君が好き」という言葉を愛する男から引き出すことで自分らしさを肯定する、という流れが作られたでしょうが、紅緒には自分で自分を肯定してしまえる強さがあります(紅緒の幼なじみである「蘭丸」が「そのままの君が好き」的なことを繰り返し語りますが、紅緒はそういう言葉をくれる蘭丸に恋愛感情を抱きません)。紅緒は不美人というキャラ設定ですが、自分ではけっこうイケてると思っていますし、男勝りでがさつなこともさして欠点だとは思っていません。いわゆる「承認欲求」に関して、他者(異性)に依存するということがないのです。
女らしさにとらわれず自分らしくあり続けたからこそ
逆に女として愛されるに至った
そして、女嫌いの編集長が代表をつとめる「冗談社」は、男ばかりの会社であり、取材の現場でも同業他社から女編集者は邪魔者としか思われていませんが、紅緒は仕事をする上で女であることをデメリットだとは思っていませんし、逆に女であることを利用してのし上がろうともしません。
しかも、ただただ「自分自身」であろうとする中で、彼女は編集長のミソジニーを解体することにすら成功します。はじめは仕事ぶりが男並みだという理由で紅緒を認めていた編集長も、性別うんぬんではなく、彼女自身の人となりを認め、愛するようになってゆきます。紅緒は忍の生存を信じつつ編集の仕事を頑張っていただけなのですが、編集長は彼女を心から愛するようになるのです。紅緒が女らしさにとらわれず自分らしくあり続けたからこそ、逆に女として愛されるに至った、という不思議な「ねじれ」がここにはあります。
自分らしさは自分で肯定すべし……そんな紅緒の信条は、親友である環との親交によっても深められています。女学校時代の環は華族のお嬢様でありながら教師に向かって「わたしたちは殿方にえらばれるのではなくわたしたちが殿方をえらぶのです/そのための勉強ならいくらでもいたします」と言っていますし、平塚らいてうの言葉をそらんじたりもしています。保守的な家に生まれ育ちながらも、かなり進歩的な考え方をするキャラクターです。やがて環は家の方針でお見合い結婚をさせられますが、自分の愛する男を追いかけて満州へ旅立つことを決意。しかもそのときの環は、「男のために全てを捨てて」旅立つのではなく、「満州支社への転勤を希望する」のです。仕事か恋愛かの二者択一ではなく、仕事も恋愛も取ろうとする貪欲さは、紅緒以上と言ってもいいくらいです。そして、仕事も男も自分の意志で選び取ろうとする環のライフスタイルは、来るべき男女雇用機会均等法以降の女の生き方を先取りしているとも言えるのではないでしょうか。
女に選ばれ愛される男が魅力的に描かれたことも
本作の大きな収穫
こうして女たちが自分らしく主体的に人生を生きている一方、男たちはあくまで後景に退き女の意志を尊重しているのも、本作の重要なポイントです。
とくに、紅緒に仕事を与え、精神的に支え、結婚式まで挙げた編集長が、最後の最後で紅緒と忍の幸せを願って引き下がる帰結は、非常に印象的です。もし紅緒が、同情によって編集長から金銭的・精神的な援助を引き出していたら、ふたりの間にここまで純粋な絆が生まれることはなかったでしょう。しかし、すでに確認したように、紅緒は同情抜きで仕事を得たのですし、彼との結婚を決めたのも紅緒自身です。
こうなってみてはじめて気がついたのよ/編集長がどんなにあたしを愛してくれていたか……/あたしの好きな少尉を助けるために/ライバルに手をのべてやるために……/あの人は自分の生き方まですてた……/そんなにもあたしを愛してくれた人……/この世のだれがそんな愛し方ができるだろう……
編集長との結婚を決めた紅緒は、彼がどれだけの犠牲を払ってきたのかをとてもよくわかっています。とある事情から、紅緒と少尉の生活を守れるのならと、出版社をたたみ、実家の銀行を継ぐ決心を固めた編集長に対し、紅緒は「編集長ひとりだけそんなつらい思いをしてほしくない……/あたしも……あたしもつれていって/いつまでも編集長といっしょに……」と訴えています。ここでの紅緒は、「わたしと少尉のためにそこまでしてくれとは頼んでない」と思ったり、あるいは「救ってくれた恩義があるから仕方なく結婚しよう」とうしろ向きに考えてもいいワケですが、そういう風には考えず、自ら積極的に編集長と同じ苦境に立ちたいと願い出ます。それはもはやプロポーズというより「同志になりたい」という申し出に近い。つまり、彼女にとって男の愛を受け入れることは、彼らの所有物になることではなく、共に歩んでいくための手続きのようなものなのです。男に愛されることは、男に所有されることではない。そうしたメッセージもまた、紅緒の生き方から導き出すことができるのではないでしょうか。
そして編集長は紅緒がいつだって自分の足で歩いてゆこうとする女だと知っていたからこそ、自分の愛を受け入れてくれるまで待ち続けたのですし、彼女が忍の元へ戻っていくことも止めなかったのです。忍もまた、そうした紅緒の性格を知っていたからこそ、彼女が編集長と結婚しようとするのを阻止せず、紅緒が自分を選んでくれるまで待つことしかできませんでした。本作の冒頭部で、紅緒と同居し始めた忍が「ぼくはね…きみが この家に新しい風をいれてくれる人だと信じてるんですよ」と語っていますが、この言葉に込められているのは、伊集院家を古くさいしきたりから自由にして欲しいという願いだけではありません。男に選ばれ愛されることばかり求める古くさい少女マンガのしきたりからの解放を忍が求めていることをも意味していたのではないでしょうか。女を選び愛するのではなく、女に選ばれ愛される男が魅力的に描かれたことも、本作の大きな(とても大きな!)収穫だと思えてなりません。
紅緒の働き方と男の愛し方は、今見ても非常に理想的ですが、これが40年近く前に提示された労働系女子の理想像だということに感動を覚えずにはいられません。女主人公が王子様から選ばれ愛される物語=シンデレラ・ストーリーを軽々と飛び越え、主体的に愛することと働くことの喜びをぎゅうぎゅうに詰め込んだ『はいからさんが通る』を読んだ読者たちは、あれから40年経った今、紅緒のように生きることができているでしょうか? それとも……。
(注1)扶桑社のムック本『完全保存版 大好きだった!少女マンガ 70年代篇』(双葉社、2014年7月)に登場する『はいからさんが通る』紹介ページの一文。このページには、他に「学校で習う「大正時代」のイメージは灰色だった。そんなグレーな「大正」をロマンチックな時代に変えた『はいからさん』は、今でもキラキラと輝きを放つ名作だ」といった文言もあります。
(注2)本作の「大正時代を描いているハズなのにどこか現代っぽい」という印象は、作者によって周到にコントロールされているように思われます。たとえば、編集者「青江冬星」に片想いをする「袋小路つめ子」がたくさんのパンフレットやカタログを手にふたりの結婚式・新婚旅行を妄想するシーンがあります。「これは熱海三泊旅行クーポンつき/ここはスイートルームに一泊招待つき。ここは花嫁入場のときのキャンドル=サービスがうりものじゃ」……キャンドルサービスが日本の結婚式で普及したのは1970年代と言われていますし、どう見てもこれは連載当時の日本で人気だった結婚式・新婚旅行のプランです。大正時代と現代の風俗が入り混じることで、作品世界と読者の生きるリアルな「いまここ」がクロスする仕掛けになっているのがわかります。
トミヤマユキコ(@tomicatomica)
ライター・研究者。1979年秋田県生まれ。日本の文芸やサブカルチャーを得意分野とするライター だが、少女メディアに描かれた女の労働について研究したり論文を書いたりする研究者としての一面も。現・早稲田大学文化構想学部非常勤講師。主な論文に 「安野モヨコ作品における労働の問題系」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第57輯』所収)など、著書に『パンケーキ・ノート おいしいパンケーキ案内100』(リトルモア)がある。趣味はパンケーキの食べ歩き。
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